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zoom RSS 道を行うには尊卑貴賤の差別なし… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第二十八条

<<   作成日時 : 2017/05/12 17:30   >>

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道を行うには尊卑貴賤の差別なし。摘まんで言えば、堯舜は天下に王として万機の政事を執り給えども、その職とする所は教師なり。孔夫子は魯国を始め、何方へも用いられず、しばしば困厄に逢い、匹夫にて世を終え給いしかども、三千の徒皆道を行いしなり。

(大意)道に行うには、尊卑貴賤など身分・立場の差は関係ない。為そうとの志さえあれば誰でも踏み行なうことが出来る。聖人といわれる堯と舜は天下に王として君臨し、万機親政を行ったけれども、天から与えられた職分は民への教師であった。孔夫子は生国である魯国を始め、どの国でも用いられることなく、しばしば困難や災厄に遭い、匹夫のまま人生を終えられたけれども、弟子や後世その遺志を継いだ多くの者たちは皆道を行ったのである。

【解説】古代シナの伝説上の聖人尭は天体を観察して暦を創り、これを民に教えたとされる。司馬遷が「その仁は天の如く、その知は神の如く」と称賛した人物だが、あくまでも後世の創作である。しかし、そこには古代シナの知識人の理想が仮託されているとみることが出来て、その伝説自体を無駄で無意味と考えるのは間違いである。
 堯の統治のあり方は、現実のシナ皇帝がそうであったような絶対的な専制君主制ではなく、『十八史略』で知られる有名な故事成語「鼓腹撃壌」という言葉で表される、東アジアにおける理想的な統治であった。

 「鼓腹撃壌」とは次のような話である。

 古代の伝説的聖天子・堯は天下を治めて五十年。
 宮殿は粗末であったが、何事もなく治まっているように見える。
 不安になった堯は、現状をこの眼で確かめるために、お忍びで街に繰り出した。すると道端で子供たちが次のように歌っていた。

「私たちは識らず知らずの内に帝の教えに従って、お陰で生活を無事立てることが出来ています」

 また、老人がいて、食べ物を口に入れ、腹づつみをうち(鼓腹)、大地を踏み鳴らしながら(撃壌)、歌っていた。

「日が昇れば耕し、日が落ちれば息う。井戸を掘っては水を飲み、田を耕しては食べる。帝の力など、私には何の関係もない(帝力何ぞ我に有らんや)。」

 以上のような話で、このようなソフトな統治を行った後、帝位を、息子ではなく、臣下の推薦により孝行者の舜に継いで、しばらくこれを後見した後、引退した。これを禅譲という。舜はこれに応えて、臣下の中から禹を抜擢して洪水を治めるなど優れた統治をおこなった。そして、最後は禹に帝位を禅譲して、この世を去った。

 シナの王朝交代はつねに放伐(追放討伐)を伴う易姓革命(王朝の姓が易わること)だったから、この禅譲という自発的帝位継承が平和な継承として理想とされたのである。しかし、放伐にせよ、禅譲にせよ、王朝の姓がかわる易姓革命であることに変わりがない。
 そこで日本では万世一系の皇統の尊さ、貴重さが意識されるようになった。また皇室では武家に政治の実権を奪われた歴史的反省から、より良い統治のための模範の一つとして、堯舜が挙げらるようになった。多くの天皇がそのような徳を身につけて、より良い統治を行なおうとされたのである。
 それは明治維新以来の皇室の帝王学として受け継がれていて、今上陛下も五十歳の御誕生日の会見で、座右の銘として『論語』の「忠恕」という言葉を挙げておられるし、皇太子殿下も学習院時代に、歴代天皇の事跡を学ばれるとともに、『論語』を中心とする四書五経を学ばれている。
 現代人の多くは皇室の行く末に無知無関心だが、明治維新以来、戦前・戦中・戦後の苦難の歴史において天皇が果たした役割について考えると、多くの日本国民が自己中心的な「帝力何ぞ我にあらんや」の「鼓腹撃壌」老人になりさがり、子どもたちに「私たちは識らず知らずの内に帝の教えに従って、お陰で生活を無事立てることが出来ています」などということが教えることもできなくなってしまっている。意識にさえないのだから教えることなどできないのは当然なのだが、自由を標榜しつつ、何と不自由な精神なのだろう!そのような人々にはそもそも、価値判断において、決断を必要とする選択肢というものが非常に狭い範囲に限られているのである。

 さて、後世の作りごとだからか、理想的な事跡だけが伝えられる堯舜だが、それだけでは古代シナとは異なる時代環境や情勢に応じた政事は行えない。そこで、修養の教科書となったのが四書五経であり、それらを編集し集大成したのが孔子とされてきたことから、ここに孔子の名が出てくるのである。
 翁がこの遺訓の二十一条で、学問の目的は敬天愛人であり、克己修身の極功として孔子の「意なく、必なく、固なく、我なし」という言葉を挙げ、また、二十三条で、堯舜を手本とし、孔夫子を教師とせよ、と述べていることはすでに触れた。世界には四大教師と呼ばれる人がいるが、翁が教師としたのは、ブッダでも、イエスでも、ソクラテスでもなく、東アジアで織りなされた思想史の縦糸となった『論語』の主役である孔子、その人だったのである。
 この稿を読んでこられた方はお気づきだっただろうが、だからこそ、翁の思想を解説するにあたって、『論語』あるいは『孟子』の言葉を援用するのが適当なのである。

 われわれ現代人にとって、これらの思想はすでに遠いところにあるが、翁にとって非常に現実感を伴った、身近なところにある思想だったはずだ。
 堯舜ははるか遠い時代の伝説だが、翁には、この人こそ、そういった聖人のような存在ではないかと思われる実在の人物に出会っていたと思われる。それが悲劇の英主島津斉彬である。

 鹿児島郷土史の権威で先年亡くなられた芳即正氏の『島津斉彬』(吉川弘文館)によれば、斉彬を尊敬していて、その遺志を継ごうとした異母弟の島津久光が、斉彬のかつての側近数名に命じて、遺聞を収集し、一書を編集しようとしたことがあったという。しかし、西郷や大久保利通らが、先君の盛徳大業は言い尽すことの出来ないもので、そのようなものはない方がましだ、と強く反対したため沙汰やみになった、という。
 久光はそれでも尊敬する斉彬の遺聞編纂の志がやみがたかったようで、後に斉彬に仕えたことがある市来四郎に命じて、遺聞を蒐集し『島津斉彬言行録』を編纂し年来の素志を果たした。勝海舟もまた斉彬と交際があり、敬仰した一人であったが、久光の息子で、斉彬の養子となって藩主を継いだ島津忠義や大久保利通から、斉彬からの書簡を所望されて譲り、今は残っていないと述べている。斉彬が薩摩藩においていかに敬仰される存在であったかが窺われるエピソードであるが、彼の遺志を継ごうとした藩士らが、ある時は協調しつつ、ある時は対立しつつ、薩摩藩を維新回天運動に駆り立てていった歴史を振り返ると、『三国志』の故事をもじって、「死せる斉彬、生ける徳川慶喜を走らす」あるいは「死せる斉彬、生ける薩摩藩を維新回天に走らす」とでも表現したくなる。

 翁がこの悲劇の英主について語った言葉はあまり残されていないが、それは言葉によって固定化されるのが憚られるほど、彼の中で、この神のような存在が生動していたことによるものであり、決して無関心であったからというわけではんかったであろう。むしろ言葉に表現される以上に、深刻で、聖なる存在であったということだ。
 それは先のエピソードにも表れているが、これに近い時期、すなわち明治二年七月の盟友桂久武宛書簡に、翁は王政復古討幕事業に尽力した心情を、概ね次のように説明している。

 貴君も御存じの通り、如何に讒言とは申せ、一度賊臣の名を蒙り、投獄までされた身で、そのまま朽ち果ててしまっては先君公(先君斉彬公)に対し申し訳なく、一度国家の大きな節目に臨んで、賊臣との疑惑を晴らしさえすることが出来たならば、泉下の君に謁した時に口をつぐむこともないだろうと、これのみ考えて生きてまいりました。ただこればかり思って御奉公仕っているわけで、(久光公には)全く君臣の情義が通ずる道理はなく、ただ義の一字のみで勤めている次第、…今日に至っては、獄中の賊臣であったということを決して忘れたわけではなく、雲霧を破ることが出来たなら退いて謹慎仕ることこそ、先君の御鴻恩を忘れないことであると明らめております。

 だから新政府に出仕もしないというのだが、筆者はここで述べられている理由がいまいち腑に落ちず、すべてを語っているとは思えないのだが、だからと言って翁が先君について語った珍しい書簡であり、彼の真情を披露したものであることは疑いようがない。
 強いて解釈を施せば、先君斉彬公が後を託した久光公から自分は、濡れ衣とはいえ、賊臣の汚名を着せられ、死罪一歩手前の、島流しの上、獄にまで入れられた身である。このままではあの世の先君公に謁した時会わす顔がないから、先君公も憂慮し事を起こそうとした程の日本の大節(幕末の内憂外患を指す)に臨んで、たとえ久光公との間に君臣の情義が通わないとしても、国家に忠義を尽くして賊臣との汚名を晴らそうと、こればかり考えて生きてまいりました。今、求められて薩摩藩の参政となり貴君(桂)とともに藩政改革に取り組んでいるが、本来なら、引退して謹慎しているべきであると考えています。

 こうなるだろうか。
 翁の思想は儒学の影響を受けているから、義理と人情で考えるべきだが、この手紙で書いてある内容については、その義理人情の内、義理の方ではなく、根底にある人情の部分として受け止めて置くべきだと思われる。義理の方は斉彬の国家の大義がそのまま継承されているのだろう。いずれにしても先君斉彬公に対する義理人情が翁の中で最も大きな位置を占めていたことは間違いない。

 斉彬の賢明さの内で、開明的側面についてはよく知られているが、それは『孫子』の「彼を知り己れを知れば百戦して殆うからず」との発想から来るもので、彼(西洋文明)の長を取り、わが短を補うという、時代の急務を果たすための学習態度、実践的姿勢から来ていた。
 ここで問題にしたいのは、彼の、己れを知り、これを学習・実践する態度の方で、単なる「蘭癖」では、その死後までも、藩の内外の多様な人士の間に深い尊敬の念を与えるというようなことはできなかったであろう。
 彼はどこまでも國士であり、伝統的國體観を見失わなかった。

 彼は明治維新の思想的源流となった水戸学について、次のように批判している。

 水戸学は國體を失わず、名分を過らないが、世界に広く目を開かず、執拗の傾きがある。

 もちろんこの批判の基には彼の学問観がある。
 彼は、官学であり、藩校「造士館」が採用している朱子学については、儒学は人道教訓の大本であるが、これを学ぶ者はわが国の歴史を軽蔑、度外視して、かの文明を尊重しがちである。学問は為政の規範であるから、わが国の人情風土に従って取捨斟酌して施すべきである。日本は世界で唯一、皇統が一系連綿と続くめでたい国柄であるから、教えの道は、皇統が幾万歳の末までも動かざることを目的とすべきである。
 斉彬は自らを天皇の臣下と規定していたようで、天子より土地人民を預かっているという王土王民思想を持っていた。

 斉彬はこの國體観から、漢学洋学を補い、本末先後を弁える学問を行う学校として、國学館の創設を構想した。つまり、わが國の國體を守ることこそ、本であり、先である、ということだ。洋学や漢学はその國體を守るための手段として学ぶのである。彼を知り己を弁じ、彼の長を取り、己の短を補う。彼は開明的な政策の一方で、日本第一の忠臣として皇統を断絶の危機から救った和気清麻呂を挙げ、史書に大隅国とある清麻呂の謫居の調査を命じ、事跡をまとめて一書となし、また、楠木正成を南朝随一の忠臣と評して、千載の鑑に供そうとした。楠公は軍事より政事に一層長じていた人と評し、その根拠を、かの乱世にあって人心を治める事でこれ以上の人はいなかった、というところにおいている。人心の一致一和をなす人格・力量が最も優れていた、ということで、ここに彼の重要な政治思想が現れている。

 斉彬の死の直前の安政五年五月、幕府は井伊直弼が大老に就任して反対派の弾圧を始めたが、その報を鹿児島で聞いた斉彬はしばらく沈黙し、次のように言ったという。

 このような形勢に立ち至った以上は、天下の乱は必ず近いうちにあるだろう。内は人心紛乱し、外は外夷の難題が迫り、まさに危急存亡の秋(とき)である。
古人(孟子)の言葉にあるように、人心の一致一和は政事の要目である。この言葉は幼年の時に講釈を聞いてから今になっても考え込んでしまう言葉である。和漢古今、人気が不和であれば亡びない国はない。堅固な秦の万里の長城も遂には無用となってしまった。孟子は地の利は人の和に及ばないと言っている。日本もこの様に人気不和を生じた以上はどうしようもない。一時乱世とならなければ、このまま治める方法はないだろう。ついては、われわれとしてはその見込みで万事の対応をなすべき時が来た。(『斉彬公御言行録』巻之五 江夏十郎談話)

 彼が五月二十八日付で幕府に提出した建白書にもはっきりと次のように書いてある。

「『天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず』また『王公険を設けるを以てその国を守る、険の時用大なるかな』等の古言に対する御省察がなされてしかるべき時節です。第一に人和、次いで諸手当て。精実に残す所なく行き届かなくては、皇国守護の御奉職整い難い時態であります。」

 このように彼は『孟子』の言葉を論拠に、人和を第一に置く。
 では、彼はこの絶望的な状況の中で、その人和を保つためには何が必要と考えていたのか。
 彼が六月九日付で松平慶永に送った書簡に次のように書いている。

「天下治乱のさかい、天運に任せるほかないと考えております。私の考えではたとえ(将軍世子が)紀州に決まっても、天下の御処置が道理に適うよう、それのみ祈っております。」

 道理に適った政治こそが、人心を一つにし、人和を保つ条件である。
 すなわち道理に基づく人心の一致一和が彼の政治の真髄ということになる。だから斉彬は藩政において藩士に意見を言うよう求め、とことん議論しようという姿勢を示していたのである。その中で、彼らに彼を知り己を知った上での道理とその幅広い知見を教え授けようとした。
 この精神を最も継いだのが翁であり、島津久光や大久保で、道理の一致する所で協調し、一致しないところで対立したのが、維新前後の薩摩藩史の重要な骨格であった。
 その協調と軋轢のドラマが、王政復古討幕の成功当りでピークとなり、廃藩置県、征韓論破裂、西南戦争の悲劇に終わるのである。

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