西郷隆盛

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zoom RSS 学に志す者… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第二十三条

<<   作成日時 : 2017/04/07 17:01   >>

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学に志す者、規模を宏大にせずばあるべからず。さりとて唯ここにのみ偏倚すれば、或いは身を修するに疎かに成り行くゆえ、終始己れに克ちて、身を修するなり。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思えよ、と古語を書いて授けらる。

「其の志気を恢宏する者は、人の患いは自私自吝、卑俗に安んじて古人を以て自ら期せざるより大なるはなし。」

古人を期するの意を請問せしに、堯舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよ、とぞ。

 

(大意)学問に志す者は、その規模を宏大にしなければならない。だからと言って、ただそこだけに意識が偏るならば、あるいは身を修めるのが疎かに成って行くこともあるものだから、終始一貫して、己れに克ち、わが身を修するよう心がけよ。規模を宏大にして、己れに克ち、男たるもの、人を容れ、人に容れられては済まないものだと思え。
そう言って翁は古語を自ら書いて我々に授けられた。

「その志気を押し広める者にとって、人の患いは、自らを私し、自らを吝(おし)み、卑俗に安んじていて、古人のようになろうとはなから思っていないことが一番大きい。」

 では、古人を期するとは一体どういうことでしょうか、と問うたところ、堯舜を手本とし、孔夫子を教師とせよ、というお答えでした。

【解説】愛国教育、安倍首相との関係、昭和天皇の臨幸、という規模の大きなものを掲げながら、わが身を修するにおいて疎かに陥った、いま話題の詐欺師、「森友学園」問題の籠池氏に読ませてみたい条だ。

 この条も前条に引き続き、二十一条の解説に譲って、補足する程度にとどめる。
 翁を実はクリスチャンに改宗していたと吹聴する人がいるが、この条を読めばそんなことありえないことがわかるだろう。
 翁は古人を期することの意味を問われて、キリスト教の聖者でも、あるいはイエス・キリストその人でもなく、儒教の聖人を手本とし、それを成す上で、孔夫子の教えに習え、と言っているのである。そして、その極功が、二十一条に出てきた孔子の言葉「意なく、必なく、固なく、我なし」なのである。この境地になれば、人をいくら容れても自らが揺らぐことはない。しかし、それまでは自らを固く戒めて、終始一貫、己れに克つよう、自らを修めなければならない。

 翁の言行にキリスト教に通ずる側面があったとしても、それはクリスチャンであったということにはならない。キリスト教の宣教に翁を利用するのはいい加減やめてもらいたいものだ。
 かつては共産主義者も己れの革命家としての思想的立場に利用するために翁の革命家としての側面のみに光を当てて利用したことがあった。もちろん、翁は共産主義など知る由もなかったし、キリスト教には触れたが、自己の武士道が揺らいだ痕跡は一切見当たらない。むしろ、西洋は野蛮である、と、侵略行為と一体化していたキリスト教をも内包して西洋文明を批判したとも受け取れるのが、この遺訓の第十一条である。

 翁が期した古人とは、シナにおいては堯舜であったし、わが国においては楠木正成であった。先君順聖公こと、島津斉彬は神にも等しい人であった。もちろんここに言う「神」とは、日本の「神」であって、キリスト教に言うところの絶対神としての「神(ゴッド)」ではない。一方、彼が西洋の英雄で気に入っていたワシントン、ナポレオン、ネルソンは、翁の理想を彼らの英雄譚に投影したものだろう。

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