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zoom RSS 道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第二十一条

<<   作成日時 : 2017/03/31 18:15   >>

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道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功は「意なく、必なく、固なく、我なし」(『論語』)と云えり。
 総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人、その事、大抵十に七八までは能く成し得れども、残り二つを終わりまで成し得る人の稀なるは、始めは能く己を慎み、事をも敬するゆえ、功も立ち、名も顕るるなり。功立ち名顕るるに随い、いつしか自ら愛する心起こり、恐懼・戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、その成し得たる事業をたのみ、苟も我が事を仕遂げんとてまずき仕事に陥り、終に敗るるものにて、皆自ら招くなり。ゆえに己れに克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するものなり。



(大意)道とは天地とともに自然にそなわった道であり、学問の道は「敬天愛人」を目的とし、終始一貫して、己れに克つよう努めなければならない。その己に克つの究極の境地は、「意なく、必なく、固なく、我なし」と言われている。
 総じて人は己れに克つ事によって成功を遂げ、自らを愛することによって失敗するものだ。よく古今の人物を見てみよ。事業を創起するような人ともなれば、十の内七八まではよく事を成しうるけれども、残りの二つを終わりまで成しうる人が稀なのは、始めはよく、己を慎み、事を敬して慎重に取り組むため、功名を立てることもできる。しかし、功名が立つにつれて、いつしか自ら愛する心が起こり、恐懼戒慎の気持ちが緩んで、慢心して徐々に驕りたかぶり、そのすでに成し得たる事業をたのんで、不相応な心得で我が事を仕遂げようとして、拙い仕事に陥り、終には失敗するもので、皆自ら招いた結末なのである。だから己れに克って、人が見ていない所であっても、聞いていない所であっても、独り、自らを戒め、慎むべきである。


【解説】天地自然の道とは忠孝仁愛の実践であり、その行き着くところの愛国である。これが普く行われていることを文明という。
 これを為すには終始己の私的欲望や感情にうち克つよう努めなければならない。
 翁はそう説くのである。

 ここに極功として『論語』の言葉が引用されているように、この思想の背骨になっているのが、『論語』であり、『孟子』である。
 『孟子』が論ずるには、天はその意とするところを言葉によって示すのではない。行いと事(事件・事象)によって示すのみである。これは、天意は天候や災害などの自然現象や民意に表れるということだ。だから『孟子』はこれを政治哲学に応用して、王道政治のコツとして、為政者は民の心を取れ、と説く。
 もちろん、天を敬する心が、また民を愛する心がなければ、その徴を天意として感じ取ることはできない。それが凝縮した言葉が「敬天愛人」ということになる。そこに私心が介在する余地はないから、終始一貫、この私心を克服する努力が、すなわち己に克つ努力が求められるのである。

 「敬天愛人」という言葉自体は明治初期の啓蒙思想家・中村正直の『自序論(ヘルプ・セルフ)』からとられていて、翁は晩年から使用し始めたようだが、その天命思想そのものの確立はかなり早く、遠島中の学問にその起源は求められ、幕末の王政復古討幕運動にすでに応用されている。この遺訓の言葉を語った時の翁にとってはすでに実験済みの思想であったと言ってよい。

 その、己れにうち克つことで達することができる、天を敬し、民を愛し、天意を感じ取ることができる究極の境地が、孔夫子が絶ったという「意」「必」「固」「我」であるが、これを正確に理解するのは難しいだろう。あえてこの四字を使った熟語で、意図、必然、固執、我執、と表してみれば、いくぶん想像しやすいのではないだろうか。
 もちろん、この境地は達人の境地であり、凡俗が望めるものではない。気の遠くなるような努力を経てようやく到達できる境地だろう。

 孔子は自己の人生を語って、「七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」と言って、自己の到達した境地を表現しているが、それはおそらくは、意図せず、必然なく、固執せず、我執なく、それでいて心のままに振る舞い、自由に行動しても、決して仁義礼智信をはずれることのない、神妙の境地であっただろう。
 
 言うまでもないことだが、これは筆者の文学的理解であって、自分はそれに達しているという、高みからの発言ではないので、誤解しないでいただきたいのだが…。そもそもそんな境地に達していたなら、それこそ「意なく、必なく、固なく、我なし」なわけだから、こんなにあくせく文章化して表現することはない。

 さて、それはともかく、孔子は自己の思想の後継者として最も認めた弟子顔回に「仁」について次のような奥義を授けている。

「己れに克ちて礼に復(かえ)りて仁を為す。一日、己れに克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや。」

 そして、その眼目を問うた顔回に対して、孔夫子はとにかく「礼」によって己を規制せよ、と説くのである。

「礼にあらざれば視ることなかれ、礼にあらざれば聴くことなかれ、礼にあらざれば言うことなかれ、礼にあらざれば動くことなかれ。」

と。

 ここにある孔子の認識「一日、己れに克ちて礼に復れば、天下仁に帰す」は意味深長で、例えば、それまで複雑な経緯をたどって、江戸は高輪の薩摩藩邸において、翁と勝海舟の間で二度の談判が行われたが、敗者である幕臣勝に対し、いろいろな事情はあったにもかかわらず、翁は終始、幕臣に対するかつての礼を失わなかったことが、勝を感服せしめ、また江戸無血開城における一つの美談、名場面として後世の人々を心服せしめたのである。
 すなわち天下仁に帰す、である。
 それはまた庄内藩降伏の際にも再現され、その感激がこの翁の精神を後世に伝える『西郷南洲翁遺訓』となったのである。

 つまり、ある歴史的瞬間(一日)において、民族の歴史が凝縮した瞬間(一日)において、礼に復り、仁を為したことで、天下をその仁に帰服せしめた。もちろん、それはその場においてのみ意識的に演じられたのではなく、常日頃の克己の努力が、翁の当時の日常非日常のあらゆる行動に一貫して流れていて、それが表出した、ということなのである。明治草創期の日本において翁の人望が他を圧倒したのは当然のことであったと言えよう。
 後に上野公園の翁の銅像の前で、翁の伝記の両者の談判を読み返して感動を新たにしていたシナからの留学生がいた。汪兆銘である。

 彼は自叙伝で次のように述べている。

「その頃私が一番打ちこんでいた日本の偉人は、西郷南洲と勝海舟の二人であった。この二人なくしては江戸事件の解決はもとより、明治維新もあれほど見事な完成を見ることが出来なかったろう、というのが私の考えであって、私は神田あたりの本屋を歩くたびに、この二人の偉人に関係あるものを漁ることを忘れなかった」

「日曜日などにはよく上野公園に出掛けて、西郷どんの犬を連れた銅像を飽かず眺めたものだ」

 汪兆銘の悲劇はこの精神が彼の祖国において通用しなかったことがその要因の一つであっただろうし、日本の指導層にそういった伝統精神が失われつつあったこともあっただろう。

 最近、江戸時代を持ち上げるために、明治維新を貶めるような歴史観を得意になって宣伝している人物がいて、こういった人物は後を絶たないが、これも明治維新を様々な角度からとらえた上で熟成された歴史観ではなく、皮相な、一知半解の理解から明治維新を礼賛する歴史観の裏返しと言ってよく、冷静にして、血の通った歴史観とは言えない。
 江戸時代が優れていたというなら、その開祖徳川家康が先がけることで咲いた江戸期の学問隆盛、なかんづく徳川家の一門を発祥とした水戸学の発展をどう理解し、どうとらえるのか。明治維新は西洋文明との出会いを刺激とした、それらの学問の弁証法的発展という大きな一面が確かにあるのである。明治文明と江戸文明を対立構造で捉えるのは皮相な見方としか言いようがない。
 もちろんこれは、対比して理解することが、双方の理解を深めることになるのを否定しているわけではなく、すべての歴史は過渡期であり、ある条件下で成立した文明と違う条件下で成立した文明を、その成立条件を無視して、単純に比較することの愚を言いたいのだ。

 少なくとも、江戸時代の知識人、そして、その最末期である幕末の指導層の背骨となった学問は、『論語』『孟子』を中心とした儒学であり、またその影響下に発展した国学であり、その感性が明治から昭和にかけての日本人には深く浸透していて、まだ失われていなかったのである。
 その後、日本の知識人は、近代合理主義的歴史観、中でもマルクス主義(唯物史観)やその一変種であるフランクフルト学派の思想の浸透、敗戦と占領軍による洗脳などを受け、ひねてしまった頭でっかちの秀才たちは自己の歴史を素直に見ることが出来なくなってしまった。
 もちろん、これは批判するなということではない。ある価値観から、あるイデオロギーからこう批判できる、ということはあってもかまわない。しかし、それは、この世に多くある価値規範から見た一つの批判に過ぎないという、相対化された視点を持ち合わせることが必要ということだ。江戸時代の様々な事象にも、明治時代の様々な事象にも、それぞれ功罪はあろう。しかし、本来批判とは物事の理解を深めるための人間の営為であるはずである。深い理解に達しない批判は、知識人のつもりであるならば、それは実に恥ずかしいことだ。特に自己の歴史に対しそれができないということは、他者に対する理解も皮相にとどまらざるえない、ということであり、それは知性の欠陥を意味するのである。

 そもそも人間の知性そのものが完全ではありえないのであり、そういった謙虚な姿勢を維持することは大事だろう。
 知性においても、あるいは知識人の仕事においても、「己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るる」との翁の言葉は通じるのである。
 ましてや、知のほかに、仁、勇を必要とする事業を創起する人においてをや、だ。

 ともかく、今我々は、激変する国際情勢の中で、過渡期の文明である戦後日本の克服発展の必要に迫られているのは確かで、われわれの血肉である伝統の背骨となった思想まで、正面から見据え、これを立て直す必要に迫られている。つまり、深い過去への洞察と、現在の世界に対する広くて深い認識の延長線上に未来を構築していかなければならないのである。

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