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zoom RSS 「正韓論」 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十八条 C

<<   作成日時 : 2017/03/10 18:02   >>

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 朝鮮半島の国家の政治に道義もへったくれもないのは、現在の北朝鮮や韓国の慰安婦像をめぐる問題を見ても何も変わっていないようだ。
 明治初頭の朝鮮半島をめぐる外交問題でもそれはよく似ている。
李氏朝鮮が日本の領事館に当たる釜山の草梁倭館に侮辱を加え、嫌がらせをしたことに対し外務卿の副島種臣が官員の引き上げを正院に対し建議したこともあったのである。
 彼が万国公法に照らし合わせて護衛艦を引き連れての問罪使派遣を主張したことはすでに触れた。
 しかし、翁はこれに待ったをかけた。
 相手に道理が通じないというのは事実であっても、万国公法に照らして問罪使の派遣が許されるにしても、道義においてこちらが十分尽くせていないのも事実である。
 然るべき地位の者が全権大使となって、国交樹立交渉に赴いて、それで初めて、双方にとっても、また世界に対しても、日本の正義と相手の非は明らかになるから、その時初めて問罪のための兵を堂々派遣すればよい。
要約すれば翁の主張はそのようになる。
 そして、本来ならその任は目覚ましい働きをしている外務卿の副島がふさわしいが、その全権大使をぜひ自分に任せてほしい、と言ったのである。

 戦争が目的ではなく、平和の使節であるから非武装で、というのがこの使節の肝心なところである。ここで、あまりでしゃばる人間ではなかった翁が自己推薦をしつこく繰り返した真意をよく考えてみると非常に興味深いことが見えてくる。
 この真意、深意を、大隈重信は、旧主島津久光との確執から逃げるための苦し紛れと見たが、今でも死処を求めてとか、自殺願望という説を唱える人はいる。
 しかし、実は翁自身が板垣退助との書簡の中で、必ずそういった見方をする人が出てくるが、そういった問題は自分の中でけりがついている、という趣旨のことを述べていて、それを弁えた上でも敢て死のうとしたのだという説はやはり無理がある。
 当時、翁は正院の筆頭参議にして、陸軍大将という重職にあった。留守内閣の最重鎮と言っても過言ではない。その重職にある人物が、しかも陸軍のトップが護衛もつれず単身で全権大使として、しかも烏帽子直垂の礼装で訪れれば、平和の大使であることは際立つし、一方で、背後に軍が控えていることを感じざるを得ないだろう。つまり、そのような大物を送り込む日本も真剣にならざるを得ないし、迎える朝鮮も真剣慎重にならざるを得ない。そういった状況を作ったうえで、翁は開国と近代化、文明国家同士の友好を求めようというのだ。
 もちろん、万が一大使が殺されるような事態にでもなれば、日本の輿論は軍隊派遣で一致するだろう。何といっても、翁は維新最大の功臣にして、英雄とされていたのだ。

 もちろんこれは李朝の態度如何によって決まることであるから、国交が樹立されればめでたしめでたしだが、殺されれば軍隊は派遣されざるを得ないから、外務省は朝鮮半島や満州地方の情勢視察のために密偵を送り込んでいたし、旧薩摩藩の軍略家伊地知正治に朝鮮征伐の作戦を練らせ、板垣退助・副島種臣も独自に戦略を立てていた。

 その局地戦略はさておき、いずれにしても李氏朝鮮の誤った政治態度を正すのが目的だから「征韓論」ではなく「正韓論」と呼ぶべきなのである。この表現の方が誤解が少ない。まさに孔子が言うように「政は正なり」なのだ。

 しかし、その「正韓論」もまた、大きな東アジア政策の中に位置づけられなければ、真に理解したとは言えない。様々な史料を総合すると、対朝鮮問題というのはその大きな政策の糸口に過ぎないのである。
 翁にとって東アジア政策最大の課題はロシアの南下にどう対処するかであった。
 この問題に東アジア最大の国家清朝は全く対処できていないどころか、国家の態をなしておらず、浸食される一方だったのだ。李鴻章が西方イリ地方でのロシアの動きに牽制されて東方では動けない、という趣旨のことを副島に語っていたことを思い出していただきたい。
 清朝は朝鮮の宗主国であると同時に、対ロシア問題でもう一つ問題を抱えていた。
 
 清朝は満州女真族の王朝で、満州を封禁の地(立入禁止)にして、民族ごと北京に移動して、シナの広大な人民・領土を支配してきたのである。封禁と言っても満州は広大で、柵があっただけだから、この地は越境してきて定住した農民やいかがわしい商人、犯罪者、馬賊などの天国となっていた。馬賊は正規の軍隊の敵ではないから、満州は軍事的空白地帯であったと言ってよい。これは南下を目指すロシアにとって好都合であった。
 ここに勢力を伸ばしたものが朝鮮半島を支配する。これは日本の安全保障にとって致命的な問題である。古代白村江の戦い、元寇、後の日清・日露の戦争はともにこの地政学的問題に起因している。

 翁が着目していたのが、この満州の重要性であった。
 翁が思い描いていたプランは大体次の通りだったようである。

 朝鮮を開国させて近代化を助けるとともに、日本の軍隊を朝鮮経由で朝鮮ロシア国境付近に出張らせて、ロシアの東方侵略拠点であるウラジオストックを牽制する。
 また満州にも派兵して、これを屯田兵となし、ロシア兵に対峙させる。
 また、さらに北海道にも屯田兵を置いて開拓に従事させつつ、ロシアの侵略に備える。
 一方で、清朝の近代化を援助して、軍事面も強化する。
 これらの兵隊に旧士族兵を当て、その間、国内の治安は徴兵に任せ、彼らが使い物になるよう訓練する。

 こういった情勢を作っておいた上で、つまり力の均衡状態を作ったうえで、ロシアと和親条約を結ぶ。翁は黒田清綱(画家・黒田清輝の養父で、旧薩摩藩士)に「朝鮮の事は心配はいらぬ。帰りにはその足で、ロシアに廻って同盟を結んでくる」と言っていた、との証言を残している。
 要するに、翁は政府の義務として、戦の一字を恐れず、道義による東アジアの一致一和を目指そうとしていたのだ。

 では、これらの大戦略実施の端緒となる朝鮮問題が、なぜ、この明治六年の段階で着手されなければならなかったかというと、実はこの時、イギリスが老帝国オスマントルコをめぐって、ロシアと対立を深めており、近いうちに戦争になるとの情報を得ていたからである。翁の見込みでは、イギリスと示し合わせて東西両面で事を起こせば、さすがの世界最大の陸軍国であるロシアも対処しきれまい、と踏んでいたのである。つまり、明治六年当時の日本の実力でも十分この大戦略を実行可能だと踏んでいたのだ。
 イギリスと組んでロシアと戦うという発想は、後に日露戦争の時に実現し、大きな勝因となっているが、それに三〇年も先がけていたことになるのである。

 さて、この時はロシアとトルコは戦争に至らなかったが、後に実現することになる。一八七七年四月開戦のいわゆる露土戦争がそれだ。一八七七年と言えば、明治十年である。日本では露土戦争開戦の直前の二月に西南戦争が起きていた。
 これはもちろん偶然ではない。
 西南戦争の内政的要因はこれまで論じられてきて、いまだよく解明されたとは言えない状況だが、これについては拙著『(新)西郷南洲伝(下)』でとことん探究したので、そちらをぜひ読んでいただきたいが、西南戦争の外的要因というのはこれまで触れられたことがなかったのではないだろうか。
 薩兵がなぜ武器を携行して東京を目指したか、それは内的理由としては暗殺団を送り込んだ政府から翁らを警護するためであったが、外的要因としては、対外政策の着手の世論を喚起し、海外派兵のための薩摩義勇兵を政府に献上する意図があったからだ。驚くべきことに、私学校では近いうちにロシアとトルコが戦争に至るであろうとの情報を得ていたのだ。
 このことは私学校のスパイを務め、政府の送り込んだ警察官の目的が私学校要人の刺殺にあるとの言質(単に視察と言ったとの説もある)を引き出した谷口登太の後の供述書に出てくる。
 彼は私学校徒から、私学校が政府に対抗するための組織ではなく、対外政策に備えるための組織であり、近々ロシアとトルコが戦争になるとの情報もあるから入校するよう勧められたと供述しているのである。
 翁の大陸政策が私学校徒に落とし込まれていたとすれば、納得いく証言である。
 こういった大陸問題は後になればなるほど日本に重く圧し掛かることになっていったのは歴史が証明するところである。

 こういった有能な旧士族兵を活用するどころか、敵視し、次々と潰していった大久保利通を政事家として強く非難したい衝動に駆られるのはこういったことがあるからである。
 明治六年の大久保は大陸の情勢に全く無智であったし、明治十年の大久保はロシアとトルコの戦争など気にした形跡もない。むしろ、台湾征伐を強引に行い、朝鮮に砲艦外交を行って無理やり開国させたことで、清朝を敵に回した。
 大久保をマキャベリストとして高く評価する知識人には国内にしか目が行ってないのではないか。地政学の見識を欠いているのではないか。
 そんな気がしてならない。

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