西郷隆盛

アクセスカウンタ

zoom RSS 征韓論 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十八条 B

<<   作成日時 : 2017/03/03 17:50   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

B征韓論
 道理に基づく一致一和を目指すという、島津斉彬より継承された政治方針は、文明開化、明治の御代となっても変わっていない。
 明治四年七月に廃藩置県が行われたが、これは王土王民思想に基づいてなされた明治二年の版籍奉還の徹底化であり、かなり急進的な改革であったが、薩長を中心とする兵の睨みが効いただけではなく、道理であるからこそ、成った改革だったのである。ここでも江戸時代を通じて浸透した儒教とそれに基づく國體観の普及は大きな成果を収めている。
 政府はその勢いに乗って不平等条約改正の予備交渉のため、遣欧使節団を送り出す英断を下すが、その際、政府の改革を行わないよう留守政府に約束させて出発したとの誤解が浸透してしまっている。後に征韓論破裂により維新政府が分裂してしまった結果からの逆算でそういった誤解が行き渡ってしまったのだろうが、当時、この約定は違う意味合いを持っていた。

 約定の冒頭、趣旨として次のように書かれている。

「今般特命全権大使派出の一挙は、まことに容易ならざる大事業にて、全国の隆替(りゅうたい、盛衰)、皇運の泰否(たいひ、安泰か否か)に関係する事なれば、中朝(日本のこと)の官員(留守組のことを指す)、派出の使員と内外照応、気脈貫通一致勉力せざれば成功奏し難く、万一議論矛盾し、目的差違を生ずる時は、国事を誤り、国辱を醸すべきに由り、ここにその要旨の条件を列し、その事務を委任担当する諸官員連名調印し、一々遵奉して、これに違背するなきを証す。」

 つまり、派出官員と留守の官員の間で意思の齟齬が生じぬよう約定を定めるとしているのだ。当時、日本と西洋の間の連絡に数か月を要したことを思えば、むしろ道理に基づく一致一和を維持するために慎重であったことがわかろうというものだ。結局、ここで心配したことが皮肉にも征韓論破裂として使節団の帰国後に実現してしまうのであるが…。 これらの事については拙著『(新)西郷南洲伝(下)』「征韓論政変篇」で検証したことがある。
 ここからの記述もそこで検証したことの要約である。

 翁は遺訓第十八条で、国が凌辱されるに当たっては、たとえ国を以て斃れても、正道を踏み、義を尽くすのが政府の本務である、と慨然として言ったという。また前条にあるように、政府がその本務を尽くさなければ、外国交際は全うできないだろうと言った。
 これはいわゆる征韓論破裂後、鹿児島に帰ってからの翁が、政府への批判を込めて語った言葉だろう。
 当時、政府はいくつかの外交問題を抱えていた。

 清朝と関係が深い台湾における現地住民による琉球漂流民の虐殺問題。
 清朝と朝貢関係を結んでいる李氏朝鮮との国交をめぐって、朝鮮政府がこれを拒絶し、領事館である草梁倭館(和館)への凌辱行為を過激化させていた問題。
 樺太におけるロシア兵による日本住民への乱暴問題。

 これらの外交問題に鋭意取り組んだのが、当時一級の知識人であり教養人であった外務卿の副島種臣であった。彼は肥前佐賀藩の国学者枝吉忠左衛門の二男で、国学及び漢学の学識は第一級であったが、それに加えて藩が長崎の警備の任に当たっていた関係から、宣教師フルベッキからヨーロッパの制度・法律・経済・国際法などについても学んでいたのである。
 彼は国権確立の外交方針から、アメリカがアラスカをロシアから買収したことに倣って、樺太を買収する方針を立て、ロシアとの交渉に入りつつあった。
 明治五年六月、ペルー国籍の帆船マリア・ルース号の寄港で、清国人奴隷二百数十名が積み荷であることが発覚し、これを助けた。この問題をめぐって諸説紛々であったが、副島は天下公道上の信念から毅然とした態度を貫いた。そのことで、列強各国の駐日公使の間に信頼を勝ち取ったのである。
 彼が外務卿に就任する前、日本はすでに清国と修好条規という、相互に治外法権と領事裁判権を承認するという画期的な対等条約を調印して、これを批准する段階に至っていた。そこに清国人奴隷の解放と返還であるから、これが日清の親交にとって好材料にならないわけがない。副島はこれを手土産に、清に乗り込んで、彼らが化外の地とする台湾の問題、朝貢関係を結んでいる朝鮮の問題解決の糸口を作ろうとしたのである。
 副島はアメリカ公使デロングから、台湾における日本と同様のアメリカ人殺害事件で、台湾原住民および清朝と交渉したことがあるリゼンドルという人物を紹介されて、これを顧問として雇い入れていた。彼は南北戦争の英雄で、清国アモイの領事を務めたこともあったから、最適任者の助言を受けることができたと言える。それにより副島はすでに台湾征伐の方針について意見を固めていた。
 条規の批准交換と清朝皇帝の婚儀祝賀の特命を受けた副島は、台湾問題の追加任務も受けて、シナに乗り込んで行った。天津で清朝の実力者李鴻章との間で、条規批准交換を為し終えた副島は、漢籍の教養を駆使して、自己の王道外交の信条を披瀝し、李鴻章と意気投合した。
 その後、北京に乗り込んだ副島は皇帝の婚儀祝賀のための拝謁儀礼をめぐって、清朝の尊大固陋な態度を改めさせるという快挙を成し遂げて、在北京各国公使から絶大な支持を取り付けている。
 こうした成果を土台に、副島は台湾及び朝鮮征伐実施に清朝がどういう出方をするかその胸をたたいた。そして、朝鮮とは朝貢関係を結んでいるが、これは儀礼的関係であり、外交内政に関しては自主の国であるとの清朝の言質を得た。
 台湾については、清朝においては琉球もまた朝貢していて、日本側の薩摩に付属してきたという主張との間で対立があった。つまり、属国である琉球の民が、属地である台湾原住民に殺された事件であるから、日本は関係ない、という主張である。
 琉球はいわば表向き、清朝と朝貢関係を結び、薩摩の支配を受けるという、いわば両属の国であったから問題がややこしい。
 日本側は、属国というならば台湾の原住民を厳重に処罰したのか、と詰め寄った。清朝としては台湾を化外の地(教化の及ばぬ地)として差別してきたのがつけこむ隙となった。
 この問題はややこしいが、日本は副島の渡清に先がけて琉球王・尚泰の使者を明治天皇に拝謁させ、藩王に封じ、華族に列せしめていたから、このように主張し得たのである。清朝にしてみれば、日本はずるい、ということになるが、今後西洋列強相手に同じ事件が起き、清朝が同様の対応をとれば、台湾を武力制圧して、ここに居座られる可能性もあり、日本としては安全保障上、清朝の尊大固陋な態度をそのままにしておくわけにいかず、清朝の前近代的な冊封体制では通用しないことをわからしめる必要があったのである。
 清朝が割譲した、当時安南と言った仏領インドシナ、香港・マカオ、ロシアに割譲した黒竜江一帯と、日本が包囲されている現状では何としてでもこれを食い止める必要があった。だから台湾征伐はなんとしてでも実施しなければならないが、せっかく軌道に乗り出した貴国との友好が台無しになってはいけないから、あらかじめ通告しておくというのである。もちろん、台湾と言っても、征伐するのは、清朝が理すること能わず、と言った原住民に対してである。
 副島は後に英国公使パークスに対し、李鴻章からも、日本の朝鮮征伐に対する同意を取り付けたと言っている。当時清朝は西方ウィグルにおけるイスラム教徒の反乱とロシアの策動に釘づけにされていて、共同で朝鮮征伐の軍を起こす余裕はないが、日本が朝鮮の目を覚ましてくれればありがたい、と李鴻章が述べたと、副島はパークスに伝えたそうである。
 彼は万国公法に照らして、軍艦を派遣して問罪使節を送るに十分な条件が整ったと判断していた。そして、その使節は外務卿である自分が任ずべきであると考えていたのである。

 副島の対清外交は大成功を収めたと言ってよい。
 彼は戦の一字を恐れず、政府としての本務、すなわち正道を踏み、義を尽くすという外交で、緊張関係の上に成り立つ外交的友好関係を築こうとしたのだ。その背骨となっていたのが、彼の国学と漢学の素養であり、江戸時代を通じて醸成された國體観に基づく王道外交と名付けることができるだろう。

 復命した副島を翁は絶賛したが、正院における参議の評議においては、護衛艦を伴った朝鮮への問罪使節派遣については待ったをかけた。日本は万国公法においては基準を満たしていると言えるが、道義においてまだ十分ではない、尽くす余地がある、というのである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
征韓論 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十八条 B 西郷隆盛/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる