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zoom RSS 談、国事に及びし時… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十八条 A

<<   作成日時 : 2017/02/24 17:30   >>

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【遺訓第十八条】解説A「幕末の王政復古倒幕運動」

 江戸時代の國體論の精髄ともいえる島津斉彬の、皇室を中心にした道理に基づく「和」の政治・政事は、島津久光や南洲翁によってそれぞれに継承された。ここで一言付け加えておかなければならないのは、現代の一般的日本人が「和」という言葉で連想することの内容は、実は「同」であって「和」ではないことだ。
 江戸時代の教養人は『論語』を読んでいたから、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」ということを知っていた。小人は同調圧力に敏感に反応して表面的に同調するが、決して全体と調和はしない。これに対して君子は決して同調せず、ひたすら仁義礼智信による全体的調和を目指す。この意味での「和」だから、非常に大人の分別が求められるのだ。

 久光は無位無官の国父という立場で、幕政改革のため、兵を率いて上洛するという、未曽有の事を為そうとした。これは斉彬の果たさなかった率兵上洛の遺策を継いだもので、藩を出たことがなく、中央政界での手づるさえ持たない久光は非常に神経をとがらせていた。というのは幕府がこの薩摩藩の大胆な行動にどういう出方をしてくるかわからなかったし、天下の浪士たちがこれを気に一挙を企てようとして、不穏な情勢にあったからである。そういった状況で、浪士たちの一挙を思いとどまらせようとした翁は、命令を無視した上に、浪士を煽っていると、久光の誤解を受け、捕らえられ、死一等を減じた遠島処分に処せられた。
久光の幕政改革が一定の成果を上げる中、翁は沖永良部島での遠島生活の中で、学問を深めることになる。
 やがて久光の幕政改革が行きづまると、藩内では島津斉彬の薫陶を受けた翁の赦免を求める動きが活発化する。久光は遠島処分以来、翁という独立の気象の人物に対する処遇が藩を分裂させかねない問題、すなわち藩の一致一和を左右する問題と捉えて、神経質になっていたが、赦免を直訴した高崎政風の「西郷は順聖公(斉彬)の抜擢した人物であり、公のお眼鏡に違いはありますか」との一言で赦免を決断したのである。
 ここから討幕まで、久光と翁を中心に大久保利通や小松帯刀は君臣一体化して事業を推し進めていくことになるのである。

 赦免後の薩摩藩の課題はいわゆる八月十八日の政変で京の政局から失脚していた長州藩に対する処置であった。池田屋事件をきっかけに、激昂する長州藩が、薩賊会奸を合言葉に京における復権を目指して攻め込み、逆に幕府や会津・薩摩に撃退される事件があった。禁門の変、あるいは蛤御門の変と呼ばれる事件である。
 御所に向かって進撃した罪を問うため、長州征伐の議が起こり、御三家の一つ、尾張の旧藩主徳川慶勝が征長総督に任命されると、建議を行った翁は総督の信任を受け、八面六臂の活躍をすることになる。
 翁は当初、長州を国替えするなど厳罰に処する考えだったが、やがて寛容な処分を主張するようになった。これが実は久光の指示によるものだったらしいのである。久光の後の談話筆記にその時の事情がつぶさに述べられている。
 久光は秀吉の薩摩処分の例を挙げて、寛容な処分にすれば、恩義を感じて、逆に忠義を尽くすようになるかもしれない、との意見に感服し、主張を変えた。そこで、翁は強硬派を押さえて、長州に乗り込んで、さっさと処置を済ませてしまったのである。長州ではすぐに高杉晋作が挙兵して藩論を改めてしまうから、きわどい処置であったといってよい。
 この後紆余曲折を経て、薩長は盟約を結ぶが、これは軍事同盟ではなく、桂小五郎が訴えた長州冤罪論を、八月一八日の政変時に遠島中で不在であった翁が受け入れたからである。これにより薩摩の藩論は長州冤罪論を採用することとなり、長州藩は幕府への徹底抗戦を、薩摩藩は冤罪赦免の運動を朝廷に対して行うことを約束したのである。これを妨害するであろう佐幕勢力と一戦する覚悟をもって、である。それが盟約の内容であった。
 この盟約が、薩長両藩の道理に基づく一致一和の第一歩となった。
 翁は討幕成って後に、岩倉具視から薩長もっと仲良くしてほしいとの要望を受け、次のように言っている。

「長州に限らず、すべて弊藩においては、道を以て会し、邪を以て離れ候は、一同の心底に御座候」

翁の主張を要約すれば、道理に基づき、他藩と一致一和する、ということになる。これは『論語』にある「道同じからざれば、相ために謀らず」に由来する思想だ。

 この後、幕府は第二次長州征伐を強行し、これに失敗することで、統制力は地に落ちた。これを見て、各藩は割拠の勢いを強める。もちろん、薩摩藩は盟約の通り、出兵を拒否し、長州の冤罪赦免のための運動を行った。 
 一方、幕府では、宗家を継ぎ、将軍となった「最後の将軍」慶喜がこの劣勢を挽回すべく、幕威再建に取り組むことになった。そして各藩への統制力を回復するために、諸大名を京に招集し、諸侯会議を開くことになったのである。
 薩摩藩は慶応三年十二月に予定されている兵庫開港までに、朝廷を中心とする諸侯会議による公議政体、つまり道理に基づく一致一和を謀る体制を実現しようとして、この諸侯会議に賭けていた。そして、もし幕府がこれを容れなければ、挙兵に踏み切るつもりだったのである。 

 慶応三年五月、幕府を中心とする諸侯会議は開催された。評議の中心課題は、長州問題、五卿問題、兵庫開港問題であった。
 一つ目の長州問題とは戦線が膠着して名目的に休戦中の長州をどのように処分するかという問題。二つ目の五卿問題とは八月十八日の政変で都落ちした公卿七人の内、長州が匿ってきて、第一次長州征伐後の処置で大宰府に軟禁状態におかれていた五卿をどうするかという問題で、一つ目の長州処分に付随する問題である。三つ目の兵庫開港問題とは、開国是か非かの問題ではなく、幕府が独断で約束した兵庫の開港を勅許するか、それとも勅命により開港するかの問題である。兵庫は京都に近いことから何かと問題になってきたのだ。ここを開港するということは日本の本格的な開国を意味していたのである。
 薩摩藩がこだわったのが、各問題の解決法だけではなく、これらの問題解決の順序についてであった。彼らは長州問題とこれに付随する五卿の問題の処置を完了してから、長州も五卿も含めた公議輿論で兵庫開港問題の処置に取り組むべきだと主張した。
 これは開国に際して、道理に基づく国内の一致一和が達成されておくべきだとのポリシーから発せられた議論であった。なぜならすでに触れたように、天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず、だからである。もちろん、薩摩藩以外の三藩(土佐・越前福井・宇和島)は強硬な薩摩藩に引っ張られていたにすぎず、この真意がわからなかった。また、薩摩藩が長州冤罪論に立脚していたため、これを罰した幕府としては冤罪論を受け容れられるはずもなく、寛典に処すことで諸侯の支持を受けようとの考えであり、薩摩藩の議論は受け入れられなかった。

 以上が当時の史料からわかることであるが、ここで注目すべきは、この時点ですでに、翁が久光に対し、慶喜に大政奉還を勧めるよう建言を行っていることである。
 翁は、各問題の処置はしばらく脇に置いておいて、先ず朝廷尊奉の筋を立てるよう将軍に建言し、もし将軍がこれに同意したら、天下の公論として「いずれ、天下の政柄は天朝へ帰し奉り、幕府は一大諸侯に下り、諸侯とともに朝廷を輔佐し、天下の公議を以て処置を立て」るように、懇々と説諭するよう久光に建言しているのである。
 結局のところ、慶喜の意見はこれまで政柄をとってきて、内政外政を司ってきた将軍の立場から、休戦状態の長州問題よりも、対外問題の方が急務であり、その長州問題も彼らが有罪であるのを前提に二度の征伐を実施した行きがかりがあったものだから冤罪論を受け入れられるはずもなく、順序論・長州処分ともに、両者の意見は折り合うことができなかった。
 そして、朝廷は評議の結果、幕府の意見を容れ、兵庫開港を勅許し、長州に対しては寛大の処置を行うことを決定したのである。

 薩摩藩首脳は久光も臨席のもと、早速、挙事を決断、土佐の乾退助も一挙に加わり、彼が匿っていた水戸浪士数名を江戸の薩摩藩邸に匿うことにした。そして、この挙事の決定を長州藩に伝え、打ち合わせを行うため、翁が長州に向かうことを長州に約束したのである。
 ちょうどそのころ、土佐の後藤象二郎が翁らのもとを訪れ、大政奉還策で土佐の藩論をまとめ、兵を上京させた上で幕府に建言するから、挙兵を待ってほしいと申し入れてきた。土佐藩が一挙に加わる事を喜んだ翁は、これに期待し、同志を説得したの。しかし、土佐の老公山内容堂は後藤の建言自体は受け入れたが、土佐藩兵の上京を許さなかった。結果的に翁は後藤の弁舌に騙されたことになり、遅れを取り戻すべく挙事を急ぐことになるが、不穏な情勢を察知した慶喜は、土佐からの大政奉還の建言を受け入れることにしたのである。このあたりそれぞれの思惑が入り乱れて、紆余曲折を経るが、結局は王政復古の大号令渙発が必要ということで、兵庫開港期日の二日前の旧暦十二月五日に戦争を覚悟してのクーデターの準備は進められた。結局、クーデターは土佐に足を引っ張られて九日に行われ、朝廷を中心とする公議政体実現へ向けて体制は一新されたのである。

 以上の経緯は拙著『(新)西郷南洲伝』の上巻で考察したことがある。
 この後鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争が戦われたように、まさに「国を以て斃るるとも、正道を踏み、義を尽くすは政府の本務」であるとの信念に基づいて、王政復古討幕の事業は進められたのである。当時薩摩藩の財政は度重なる改革と派兵の出費により破産寸前まで来ていたから(当時大久保は戦に備えて中古の蒸気船を購入するために藩士から義援金を募る事を盛んに建言しているほどである)、戦の一字を恐れ、政府が商法支配所に堕していたなら、維新回天の事業は成功しなかった。これは長州藩も同様だったはずである。

 もちろん幕府も、腐っても鯛であり、商法支配所に堕していたということはないが、少なくとも長州に負けてからの慶喜は、戦の一字を恐れ、これに加えて後には朝敵の汚名を蒙ることを恐れたのは間違いなく、これでは朝廷を頂点とする国論の統一された近代国家を建設していくことは無理だったに違いない。
 朝廷を中心とする、道理に基づく一致一和の達成という、強力なポリシーは後期水戸学を学んだ水戸の貴公子でありながら将軍職を継ぐという矛盾を抱え込んだ慶喜をとことん追い詰めたのである。

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