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zoom RSS 国の凌辱せらるるに当りては… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十八条 @

<<   作成日時 : 2017/02/17 17:09   >>

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談、国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当りては、たとえ国を以て斃るるとも、正道を踏み、義を尽くすは政府の本務なり。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、ただ目前の苟安を謀るのみ。戦の一字を恐れ、政府の本務を堕しなば、商法支配所と申すものにて、さらに政府には非ざるなり。


(大意)話が国事に及んだ時、慨然として申されたのは、国が凌辱されるにあたっては国を以て斃れる覚悟で正道を踏み、義を尽くすのは政府本来の務めである。
そうであるのに、平常無事の時に金銭や穀物(年貢すなわち税一般をさすと思われる)や財政を議するのを聞いていれば、いかなる英雄豪傑かと思われるが、戦争に臨んでは、頭を一か所に集め、ただ目前の一時のがれ、問題の先送りを謀るばかりである。戦の一字を恐れ、政府本来の務めを怠るようなことがあるならば、商法支配所とでも申すべきで、政府などと呼ぶべきものではない。

【解説@】
 怯懦を極度に卑しむのは薩摩の藩風で、郷中の若者(二才)の間では戦国時代から次のような俗謡が謡われていたという。

肥後の加藤が来るならば
硝煙さかなに団子会酌
団子は何だ、ご鉛団子
それでも聞かいで来るならば
首に刀の引出物

 「肥後の加藤」は加藤清正で、秀吉が肥後においた加藤家は、島津家にとっては仮想敵国であった。
 『日本外史』の著者である名文家・頼山陽はそういった薩摩の藩風を漢詩に翻訳している。それが有名な「前兵児の歌」だ。

衣は骭(すね)に至り、袖腕に至る
腰間の秋水、鉄をも断つべし
人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬る
十八交わりを結ぶ健児の社

 この藩風に対し、開化的な藩主島津重豪が持ち込んだ江戸の風俗に感化された、当時の藩風を風刺したのが「後兵児の歌」だ。以降の薩摩藩は両藩風がせめぎ合って、これが発条となって、異様な力を発揮したが、やはり背骨となっていたのは「前兵児の歌」に表現された古来からの士風である。
 そういった藩風の中で育った翁は、保守的な「前兵児の歌」的気質を濃厚に受け継いで成長したが、開明的な藩主島津斉彬との出会いが翁の思想をスケールの大きなものへ開花させた。そういった物語はよく知られているが、斉彬はその國體観においては保守的で、日本のあり方については崎門学的な皇室中心主義者であり、神儒習合思想を持ち合わせていた。彼の政治信条の中心となっていたのが、若いころに学んだ『孟子』の思想「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」であり、晩年、幕府へ提出した意見書にはそれを引用して、政策が提言されている。

 では、斉彬がどのようにして日本の和を達成すべきと考えていたかというと、皇室を中心に、大義名分に則り、道理を尽くした政治を行なうべし、ということに行き着く。
 最終的に彼は兵を上京させ、朝廷を守護するつもりであったが、これは外夷が朝廷に危害を加えるならこれを守る、というのはもちろんの事、幕府が朝廷に危害を加えるならこれとの対決をも辞さない、ということであった。まさに国を以て斃れる覚悟で義を尽くそうとしたのである。

 この時、英主斉彬の手足となって奔走したのが翁であり、後継者たらんとしたのが異母兄弟の島津久光であった。久光の人物を斉彬は志操方正厳格と見込んでいた。久光は朱子学を学び、浅見絅斎の『靖献遺言』を好んだというから、翁と同じ思想的基盤を持っていたことになる。翁と対立したことで非常に評判が悪い人物だが、これは公正な評価とはいえない。どうせよく知らずに超保守などと批判しているのだ。
 思想的根幹において、翁と大久保よりは、翁と久光は近かったと言えるだろう。
 幕末より久光は脚気により引きこもりがちになったから、活動が制限され、翁との間に齟齬が生じることがたびたびあったが、関係がこじれても、翁が拝謁して弁解すると氷解し、大抵これを受け入れている。西南戦争前の明治九年ごろには幕末のように一緒に政府を改革しようと申し入れているし、西南戦争が勃発すると翁の立場を政府に弁護してもいる。藩主と藩士という立場から、日本の改革、王政復古討幕において対立するところもあったが、少なくとも幕末においては協調を基調とする関係だった。

 久光もまた、「国が凌辱されるにあたっては国を以て斃れる覚悟で正道を踏み、義を尽くすのは政府本来の務め」を実践したことがある。生麦事件から薩英戦争に至る一連の事件がそれである。生麦事件は参勤交代中の久光の行列の前を英国公使館員が乗馬して横切った事件で、これは日本では非礼行為とされ、国が凌辱されたことを意味する。久光が藩士に示唆したとも、藩士の自発的行動ともされるが、件の館員は斬殺された。久光はその実行した藩士を、戦争を覚悟してまで庇ったのだから、正道を踏み、国父としての務めを果たしたのである。翁はこの時、遠島中であったが、船を用意して島を抜け出し、禁を破ってまで戦に加わろうとしたのだから、藩士として藩主の決断を支持したのだ。
 この戦の後、薩摩藩が英国と友好関係を結ぶようになったのはよく知られるところであるが、戦後の日本人が「友好」という言葉で連想するような、おめでたい関係ではない。
 食うか食われるかと言った緊張関係、力の均衡関係の上に築かれた「友好」関係なのだ。戦後の日中、日韓の友好関係のような嘘偽り、まやかしの上に築かれた友好ではない。ライバル関係の中で生じる友好関係であり、相撲でいえば同じ土俵に立ち、がっぷり四つに組んだ上でできた静止状態のようなものといえばわかりやすいかもしれない。その上でどう振る舞うか、ということなのである。少年漫画によくあるテーマだが、ライバル関係にこそ成り立つ相互畏敬、相互理解というのは確かにあるのだ。
 むしろこの均衡状態が敗れたときに戦争は起きる。当時の列強間の戦争には、そういった面があったし、そうならないためにも戦争を必要としたこともあった。しかし一方的な政治的要求や戦争を仕掛けられないためにも、積極的にそういった国際政治の同じ土俵に立つ努力が必要であり、その必要性を強く認識したところで、幕末の騒乱、維新回天の運動は起きたのである。

 最近ネットで、明治維新はまやかしであり、江戸時代こそ文明であったとかいうような議論が積極的に宣伝されているが、いつまでたっても、一知半解な極論を得意気に唱えたがる知識人は多い。もちろん江戸文明は豊かであり、優れた文明だったと思うが、それが堪えられない国際状況とその影響を受けた内政情況になったからこそ、抜本的な改革が求められたのである。すべての歴史は過渡期であり、完成した歴史状況などありえないのである。

 もちろん明治維新に欠陥がなかったというわけではない。
 明治の日本はいろんな意味で迷走があったのも確かである。鹿鳴館などはその象徴だろう。卑屈な精神が西洋文明崇拝と江戸文明否定という自虐史観を生んだ。
 それは戦後の日本が戦前を全否定したのと同じ心理現象だろう。
 だからこそ、戦前・戦中の再評価が必要なのと同じように、江戸文明の再評価、そしてそれを土台にした明治維新の再評価が必要なのだ。

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