西郷隆盛

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zoom RSS 節義廉恥を失いて、国を維持するの道決してあらず 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十六条

<<   作成日時 : 2017/02/03 16:54   >>

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節義廉恥を失いて、国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて利を争い義を忘るる時は、下皆これに倣い、人心忽ち財利にはしり、卑吝の情日々長じ、節義廉恥の志操を失い、父子兄弟の間も銭財を争い、相讐視するに至るなり。かくの如く成り行かば、何を以て国家を維持すべきぞ。
 徳川氏は将士の猛き心を殺ぎて世を治めしかども、今は昔時戦国の猛士よりなお一層猛き心を振るい起こさずば、万国対峙は成るまじくなり。普仏の戦、仏国三十万の兵、三カ月糧食ありて降伏せしは、あまり算盤に精しき故なりとて笑われき。



(大意)節操義行(節義)、清浄にして恥を知る心(廉恥)を失って、国を維持する道はない。これは西洋各国も同然である。上に立つ者が下に臨んで、利を争い、義を忘れる時は、下々は皆これに倣い、人心はたちまち蓄財に走るようになり、卑しくむさぼる気持ちが日々長じ、節義廉恥の志操は失われ、父子兄弟の間においても財産をめぐって争うようになり、しまいには互いに敵視するに至るであろう。このようになってしまえば、何を以て国を維持することが出来ようか。
 かつて徳川氏は将士の勇猛な心を殺いで、世を治めたけれども、今は戦国時代の猛士よりもなお一層の勇猛心を振るい起こさなければ、万国との対峙はならず、どこか列強の植民地とならざるを得ないだろう。例えば、普仏戦争の時、フランス兵三十万が、三カ月分の糧食を残して降伏したのは、損得勘定にあまりにも精しすぎたからだ、と言って笑われた。


【解説】これは第九条を翁自身が解説した内容になっている。

「忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、万世に亘り宇宙に弥(わた)り易(か)うべからざるの要道なり。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別なし。」

 人との関係性、社会性の上に成り立つ忠孝仁愛の心を失えば、節義廉恥の志操もなくなり、人との関係は利害損得勘定で測られるようになる。富を求めるのは人にとって自然の情であるから、責められるべきではないが、手段を択ばぬ富の追求は許されるべきではない。人に、社会に、害を与えてまでの富の追求が非難されるのは当然であり、忠孝仁愛の精神に基づく節義廉恥の心こそ、その歯止めとなりうるのである。
 社会をそのように導くには、上に立つ人間こそが、節義廉恥の心を失ってはならない。なぜなら、孔子が言ったように、「政は正なり」であり、「子帥(ひき)いて正しければ、だれか敢て正しからざらん」、また、「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上(くわ)えれば必ず偃(ふ)す」からである。

 そこで、翁は次のように言うのである。

「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、いささかとも私を挟みては済まぬものなり。」(第一条)

「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり…。」(第四条)

 翁自身、その実践者であったことは衆目の一致するところだろう。
 
 もちろん、忠孝仁愛の心に基づく節義、廉恥のあるなしが、前条のように、軍隊の精強さに結び付くのは容易に理解できることになろう。その精神が職務遂行の強い信念を生むのである。その国民精神がそういった職務遂行者に対する名誉を与えるのである。
 現代の政治家、もとい政事家の無節操、不義理、破廉恥な振る舞いは枚挙にいとまがないほどだが、競争原理に基づく選挙制度を勝ち抜いた民主政事家がこのようになるのは当たり前である。彼らはマキャベリストの亜流として、目的を達成するには手段を択ばぬのが政事家であると心得ているかもしれないが、マキャベリは正確には次のように言っているのである。

「祖国の存亡がかかっているような場合は、いかなる手段もその目的にとって有効ならば正当化される。」(『政略論』)

 マキャベリにとって何にもまして優先して守られるべきものは祖国の安全と自由の維持であった。自己の、あるいは自己の属する党派の利益のために手段を択ばぬ政事家ふぜいが、どんなに立派なことを言っても、マキャベリズムの亜流でなくて何であろう。
 外遊後の大久保利通はそういった意味ではマキャベリストの亜流とは言えない。
 彼は彼なりに日本の安全と独立という自由を守るために、征韓論破裂という、悪質な手段を用いての陰謀を仕組み、不平を持つ者を次々と滅ぼしていったからだ。そういった意味では、彼はマキャベリを知らなかったにしても、マキャベリズムに則って進んだのである。
 彼は薩長閥を柱とする新政権を維持することこそが祖国日本を守ることであると信じていただろう。問題は、大久保の敵は藩閥打破をもくろんで、長州系官吏の腐敗を糾弾している江藤新平ただ一人であったはずが、これを排除するために、藩閥を超えた「征韓論」という国策を唱える有力な輿論を結果的に陰謀によって排除してしまった事であった。当時の長州系官僚は井上馨を筆頭に金銭的腐敗が著しく、一度、粛正された方がよかったのは確かであったし、「征韓論」は党派を超えた国策の問題であったから、このような卑小な問題意識で封じられるべき問題ではなかったのである。
 現に当時陸軍少将であり、「征韓論」に反対した翁の実弟西郷従道は、後にあの時こそ征韓論実施の好機であったと反省しているし、後になればなるほど、朝鮮半島をめぐる問題は明治政府に重く圧し掛かってくることになったのである。にもかかわらず、大久保の狭い視野は、翁との確執や、藩閥政治という国際政治の観点から見れば矮小な問題にとらわれていて、事の重大さに気づいていなかった。
 筆者は岩倉具視がこの政事的盟友を評して言った「大久保は識なし、才なし、ただ確乎として動かぬが長所なり」は妥当な評価だと思っている。この問題では大久保の長所が、識乏しきがゆえに日本という国家に短所として作用した。薩長閥を守ったということよりも、朝野に沸き起こった公議輿論を国策としてまとめる機会を失ったのみならず、公議輿論のために命を捧げようという有能な人材をあまりに多く失ってしまった。内乱で膨大な国費を費消し、富国強兵の政策を足踏みさせただけでなく、人材面での国家的損失は後世から見て測り知れないものがあったように思われる。

 マキャベリストの亜流で埋め尽くされた現代日本の政治的土壌からはなかなか大政治家が現れなくなってきているように思われるが、いくら政治家が節義廉恥の精神を失っても、その上に皇室という世俗から超越した、蓄財や党派の争いとは無縁の存在があり、これが国民の心のよりどころとなっている限りはまだ取り返しがつくだろう。
 ここで普仏戦争が引き合いに出されているのは興味深い。
 一八六六年の普墺戦争の結果、北部ドイツ地方の盟主となったプロイセン王国は、次に南部ドイツ地方の諸王国を併合して統一ドイツ帝国を創るために、プロイセン国王ヴィルヘルム一世と宰相ビスマルクが画策し、一八七〇年、フランスを挑発して、宣戦布告させた。これが普仏戦争である。プロイセン軍は参謀総長モルトケの周到な計画に基づいて、戦争の帰趨を決したセダンの戦いで皇帝ナポレオン三世率いる十万のフランス兵を包囲し、降伏させた。開戦より一月半後のことである。捕虜となった皇帝をフランス国民は廃位したが、そのさらに二ヶ月後には、パリに向かうプロイセン軍を牽制していたメス要塞の十八万のフランス軍が大した抵抗もなく降伏した。援軍が期待できず戦意を喪失したためだったという。三ヶ月後パリは陥落した。そのパリ攻囲戦のさなか、プロイセン王はヴェルサイユ宮殿で統一ドイツ帝国皇帝に即位したのである。
 セダンとメスで降伏したフランス兵を併せると約三十万ということになる。翁が言うフランス兵の不甲斐ない戦いがどちらの戦いを指すのかはっきりしないが、内容的には後者を指すのだろう。この戦意の無さを普仏戦争全体のフランス軍の脆弱さの象徴的事件と認識していたのだろう。

 普仏戦争は明治三年の世界史的大事件であった。
 プロイセンはこの戦争に勝ち、統一を成し遂げることにより、ヨーロッパ大陸における中心的勢力にのし上がったのである。
 この直後の明治五年にヨーロッパを訪れた岩倉使節団が、この飛ぶ鳥落とす勢いであったプロイセンに注目し、そこから多くを学ぼうとしたのも当然であった。彼らはビスマルクやモルトケに面会してその意見を質した。その意見に関しては第十一条の解説で紹介しておいたので参照されたい。大久保は彼らに共感したし、伊藤博文などは東洋のビスマルクたらんとしたほどで、統一ドイツは維新政府の一つの模範となったのである。
 日本は天皇を権威とする統一政権を打ち立てたばかりであった。内乱を収束せしめ、明治四年の廃藩置県により中央集権の道筋をつけたばかりであった。日本は幸い、国内的に、自力で統一を達成したが、プロイセンのように対外戦争に勝てば、政府の威信は高まり、開化政策はよほど進めやすくなるし、不平は鎮められる。対外戦争が視野に入ってくるのは、政府官人が間近に見て来たプロイセンの例もあって必然の勢いだったであろう。
 南洲翁や桐野利秋の征韓論の中に、外国との戦争に勝てば、不平等条約の改正がやりやすくなるとの卓見がみられるが、これは現に後の日清戦争の勝利で不平等条約が撤廃されているところから見て、国際政治の力学を弁えた優れた見解であったことがわかる。
 もちろん征韓論の中に戦争が含まれると言っても、何が何でも李氏朝鮮との戦争に持ち込もうとしていたということではなく、朝鮮問題は宗主国である清国や南下の機会を窺っているロシアとの外交問題であるとの認識が翁にはあった。
 翁が特に仮想敵国として意識していたのは、東アジアの儒教文明圏に属する清国やその属国である李氏朝鮮ではなく、西洋列強の一角であるロシアであった。翁は朝鮮半島を通路と考えていて、ロシア・朝鮮国境地域、そして満州人王朝である清朝にとっての故郷であり、当時封禁政策によって無主の地とされていた広大な満州に張り出して、ロシアと対峙しようとの考えを持っていたのである。国内の治安は徴兵に任せ、対外戦争には教養もあって軍事に精通した旧士族兵を、明治政府の施策に不満を抱きがちな旧士族兵を主力として派遣するつもりであった。
 猜疑心から、これらの有能な人材を政府の敵に追いやり、次々と叩いていった大久保とは違い、かなり長期の国家戦略から割り出した政見だったのである。
その政見実行の中で仮に対外戦争が起きたとしても、勝てば、日本という国家の実力は認められ、条約改正交渉一つとってもやりやすくなる。プロイセンから学ぶべきはそのことであった。

 翁が言うように徳川幕府は武士の猛き心を殺いで世を治めたわけで、幕末、幕府の外国方翻訳局・外国奉行に勤務した福沢諭吉によれば、「competition」を「競争」と訳した際、この「争い」という字は穏やかではない、とたしなめられたと述懐している。ここまで行くと現代の反戦平和主義者と同じで、病膏肓に入るという感じだが、開祖家康においてはそうではなかった。家康は武家諸法度において、兵を凶器と規定し、私戦を禁じたのである。私戦か公的な義戦かを司るのが天下人である徳川家であり、「公儀」との呼称の由来の一つはこれであろう。彼は武家に対し、武器を持つことを禁じたのではなく、治にあって乱を忘れず、武を磨いた上に、さらに文を修めて、言わば文武両道を勧めたのである。これは信長・秀吉から継承してきた戦国の乱世から秩序を立て直すための政策であったといってよい。
 その文武両道の背骨となる規範こそ儒教であった。
 翁は、万国対峙の今こそ、その原点に立ち返れと言っていることになろう。
 翁は当時の世界を、文明の時代というよりもむしろ戦国時代とみなしていたのである。
 これは二度の世界大戦を経た後世の目から見ても、妥当な見識であったと言わざるを得ない。
 そして、現代であっても意識の根底に常になければならない認識と言えよう。

 大久保はプロイセンを訪れて、淳朴の風を看取したが、ビスマルクの仕掛けたドイツ統一の冒険的事業は確かにドイツ人の愛国心を刺激した面があった。
 当時、普墺戦争の時には冷静で中立的な立場をとっていて、バーゼル大学教授に就任するにあたって、プロイセン国籍を捨ててスイス国籍を取得していた若き日のニーチェは、普仏戦争の砲撃を聞いて、突如、棄てたはずのドイツへの愛国心に目覚め、衛生看護兵としての従軍を志願した。彼は「われわれのすり切れた文化全体が恐るべき悪魔の胸にころげこんだのだ」と述べている。彼はこの戦争で問われているのはわが文化であり、呪わしいフランスの虎によってそれが危機にさらされている、との言葉も残している。彼はこの時、処女作『悲劇の誕生』の原型となる重要論文「ディオニュソス的世界観」を書き上げ、これを妹に読み聞かせている最中に轟いた砲声が、青天の霹靂となって、彼に突然の従軍を決意させたのである。これは不可解な出来事のように論じられるが、別に不思議ではない。彼が「わが文化」と考える古代ギリシャやルネッサンス文化の危機に、ちょうど彼がその根底にあると洞察したディオニュソス的世界観が応じ、突き上げた、ということで、一種の宗教体験、啓示であったと捉えればよいのである。これは彼の原体験であった。
 彼はビスマルクの統一事業を支持したが、やがて戦勝の熱狂の中で帝国ドイツに芽生えた浅はかな文化ナショナリズムに嫌悪を覚え、ビスマルクへの、帝国への批判者に転じた。一八七一年、フランスの首都パリにおいて、敗戦の衝撃と混乱の中で革命が起こり、マルクスの思想的影響を受けたパリコミューンが一時的に首都を占拠しプロレタリアート独裁を宣言する事態となった。この成功は一時的であっても後の国際共産主義運動に大きな教訓を与えた事件であった。その中で、パリのルーヴル美術館が炎上したとの誤報がニーチェと静的な文化観照主義者であったブルクハルトを悲嘆させている。これはニーチェらが広くヨーロッパの基底となる文化全体を愛してやまなかったことを表しているだろう。

 ちなみに国防政府代表となったアドルフ・チェールはパリ・コミューンを徹底弾圧して大統領に就任するが、大久保は彼を豪傑だとして感服したことはすでに触れた。征韓派の旧士族は一方で、下野後は民権派でもあったのだが(おそらく根底に武士の王道的人民民主主義の伝統を保持していたからであろう)、大久保は大した吟味もなく、彼らをコミューンに見立ててこれを弾圧したのかもしれない。
 
 さて、ニーチェは紆余曲折を得て、その思索活動の果ての哲学者としての充実の中で革命を夢想するようになる。超人革命、ディオニュソス的革命とも呼べる、彼自身が創造の神ディオニュソスの化身となっての革命であった。それがどのような内容を持つものかはやがて狂気を発することになるニーチェ本人にしかわからないが、アンチ・クリストにして、近代というニヒリズムの克服を目指した革命であることは確かだろう。彼はその革命のうわごとの中で、ドイツ帝国自体が虚構であり、帝室およびビスマルクはドイツのことなど考えたこともないと非難し、この帝国を反ドイツ同盟の蜂起によって締め付け、即位したばかりの皇帝ヴィルヘルム2世を銃殺するつもりだ、と叫んでいる。妄想といえば妄想だが、彼の宗教的原体験が、帝国の黄昏にあって彼の中ではちきれたと考えることも可能だ。
 彼は浅はかな文化ナショナリズムがやがてドイツ帝国という虚構を破滅に導くことを直観的に見抜いていたのではなかっただろうか。
 第一次世界大戦によってドイツ帝国は崩壊し、皇帝は敗戦の辛酸を嘗めている国民を見捨てて亡命した。そして、今度は国家社会主義政党ナチスの台頭によって帝国は再び破滅することになったのである。

 なぜこのように一見、日本に関係ないことを書いたかといえば、日本にも後に文化ナショナリズムの台頭があって、それがいわゆる皇国史観だが、日本にはまた、国民の安寧を無私に祈り続け、また文化を体現してこられた皇室の存在があり、それが帝国の生成と生長のかなめとなり、さらにその滅亡を救った歴史があるからである。
 明治維新は国家の危機に際して、わが国の儒教的伝統と神道的伝統が応じた結果、成った思想運動であった。武士の多くは朱子学を中心とする儒学と国学を学んでいた。彼らがその中心となる皇室を盛り立てて、列強の一角に食い込むまでになったのである。
 その背骨となった國體観の骨格をなしていたのは儒教思想であり、精髄をなしたのが神道的世界観であった。儒教思想は東アジア文化圏の背骨をなす思想であり、神道はわが国固有の思想的源泉である。
 昭和に入って國體論が盛んに論じられるようになったが、伝統的教養は失われ、西洋由来の社会主義的統制思想が日本の指導階層の頭脳を犯したとき、国民の多くが豊富に持っていたこれらの伝統的感情を彼らは否定した。

 歴史小説家の海音寺潮五郎が『赤穂義士』の中で次のように書いている。


 世間の人は、戦争中は『武士道』は大いに賛美され、従って赤穂義士など大いに認められていたと思っているが、事実は反対であった。
 当時の羽ぶりのよかった学者等、つまり国民文化研究所や、翼賛会などに巣くっていた学者等や、軍当局や、政府当局は、こう言っていたのだ。
「武士道は封建道徳だ。殿様に対するだけの忠義の道である。つまり小義である。日本人の本来の道は、皇室に対する忠誠の道、即ち大義であるべきだ。それ故に、武士道美談など、好もしくないことだ」と。
 戦争中日本軍が国の内外でしたこと、あるいは住民への残虐行為、あるいは捕虜虐待等が、戦後外国で問題になって、日本の武士道まで非難されたが、実を言うと、日本軍部は武士道を否定していたのである。
 さて、こんな指導理論が権力と結びついて盛行していたのだから、赤穂義士など顧みられなかったのは当然のことであった。それどころか、抹殺されようとまでしたのだ。戦争中の昭和十八年、ぼくは「サンデー毎日」に「赤穂浪士伝」を連載したが、途中、当局の命によって執筆を中止せざるを得なくなった。編集者が呼び出されて、「小義武士道の物語である赤穂浪士伝などをなぜ連載するか」と、叱りつけられたのである。

 
 「皇室に対する忠誠の道、即ち大義」とはいいつつ、昭和天皇は立憲君主の立場を頑なに守られて、政治的中立を重んじておられたから、このことは当局の指示に従え、ということに他ならない。そのレトリックには詐術があるのである。軍部が統帥権干犯を言い立てて、天皇の大御心など気にもかけず、革新官僚が国政を引っ張ったことに端的に表れているように、彼らの指示に従うことがすなわち皇室への忠誠の道であったとは到底いいがたい。
 皇室への忠誠は多くの国民感情に沿ったものであったから、このように言ったのであろうが、彼らの一部には大義と言えば、すなわち共産主義運動を指す場合も少なからずあったのではないか。近衛上奏文の内容を思い出していただきたい。
 現実に、大日本帝国における殿(主君)と言えば、明治四年の廃藩置県以降は天皇陛下しかいなかったことを思えば、小義は皇室に対する忠誠の道、すなわち大義につながっていたのであるから、赤穂浪士の行動、美学は称賛されこそすれ、否定される筋合いのものではなかったはずなのである。 

 前条の解説で「戦後の日本にみられる合理的科学的根拠を欠いた原則には、国際政治の力学が働いて、これに隷属する政治家や官僚たちがそれを支えている、と考えている」と書いたが、これは戦前や戦中のことにも言えて、日本人の立場から見て非合理的で不可解な政治的事件には、国際政治の力学が働いて、これに隷属する政治家や官僚がそれを支えている、との仮説が適用できると思う。
 当時はスターリン外交の長い手が、日本のみならず、シナにも、アメリカの政権中枢にも届こうとしていたのである。

 いまだに敗戦国日本はこの病を克服しているとは言えないが、少なくとも日本の節義廉恥を守り続ける皇室の存在がある限りは再生は可能であると信じたい。だが、それをなすのはそれを自覚したわれわれ国民なのは言うまでもない。

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