西郷隆盛

アクセスカウンタ

zoom RSS 会計出納は制度の由って立つ所… 【西郷南洲翁遺訓】 第十四条

<<   作成日時 : 2017/01/20 17:42   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

会計出納は制度の由って立つ所、百般の事業皆これより生じ、経綸中の枢要なれば、慎まずばならぬなり。その大体を申さば、入るを量りて出ずるを制するほか更に術数なし。一歳の入るを以て百般の制限を定め、会計を総理する者、身を以て制を守り、定制を超過せしむべからず。しからずして時勢に制せられ、制限を慢(みだり)にし、出ずるを見て入るを量りなば、民の膏血を絞るのほかあるまじくなり。然らば、たとえ事業は一旦進歩する如く見ゆるとも、国力疲弊して済救すべからず。

(大意)予算は各種制度の拠って立つ所であり、百般の事業は皆これがなければ始まらぬほどの、政事の最も肝心かなめの部分であるから、慎んで執り行われなければならない。その大体を言えば、『礼記』に「入るを量りて以て出ずるを為す」とあるように、収入を計算して、支出を制御する、という基本を守る以外の術策はない。一年の収入を把握して百般の事業の制限を定めて、会計を総理する者は身を以てその制限を守らなければならない。そうではなくて、逆に時勢に制せられて、制限をみだりにして、支出の必要性から逆算して収入を図るなら、民の膏血を絞るような税の徴収を行うほかなくなる。そうすれば、たとえ事業は一旦進歩するように見えても、民は貧しく心身ともに疲れ果て、国力は疲弊して救済は困難になるだろう。

【解説】これも前条同様、シナの古典『礼記』の一節を引用して、税政に臨むうえで守るべき原則を述べたものである。翁がテクニカルな近代税政の議論に精通していたということはないが、ここで述べられている原則論が正しいものであるのは歴史に照らして明らかだろう。
 この原則に違反して、「出ずるを見て入るを量る」という事態が起こりがちなのが戦争であり、戦費調達のための増税は大抵が恒久的制度となる。明治憲法の制定に伴って、臣民の納税義務が定められ、日清、日露の戦争を機に新税が次々に創設され、様々な改革が試みられ、理論は緻密化していった。すでに触れたように昭和に入ると最新の科学思想として共産主義、社会主義思想がインテリの間に浸透し、シナ事変最中の昭和十三年に、共産主義思想に被れていた第一次近衛内閣で国家総動員法が制定された。全体主義的統制思想が世界を席捲する時勢に日本もまた制せられ、第二次世界大戦が勃発し、戦費は増大の一途をたどり、増税が繰り返され、国民の自由は極限まで制限され、物資は配給制となったのである。国民の戦意は旺盛であったが、民の膏血は絞りつくされ、国力は疲弊を極めた結果の敗戦である。

 このことから言えるのは、国民の自由を制限しての統制経済は一時的に経済の復興に効果を発揮しても、中長期的には国民経済を停滞させるということである。ナチス支配下のドイツも(ナチスとはナショナル・ソシアリズム、すなわち国家社会主義政党のことである)、共産主義国家であるソ連も、例外ではなかったし、第二次世界大戦後、多くの植民地を失い、財政的に疲弊し、社会主義思想に席巻された、サッチャー登場以前の英国でも同じであった。
 一方で、大英帝国が掲げていた経済自由主義も植民地からの収奪によって支えられており、有色人種国家の人民の犠牲の上に築かれた繫栄であったことを思えば、どのようなイデオロギーにも負の側面はある。これは現代のグローバリズムにも共通していて、それがイデオロギーである以上、万能のイデオロギーというものは存在しない。要は人間的な、ということはもちろん歴史や伝統や社会的経験に裏づけられたということだが、そういったバランス感覚が大切なのだ。伝統的な言葉でいえば「中庸」と表現できる態度である。

 これは大戦時のアメリカニズムにも適用される。共産シンパであったルーズベルト大統領は不況を乗り切るために、ニューディール政策を行ったがこれは社会主義的政策であり、大した成果を上げることなく終わったが、大統領自身は、ロシア革命における社会政策を百としたら、ニューディールはその内の五十位は実現したかもしれない、と自己評価していたという。しかし、結局は第二次世界大戦への参戦で世界の武器庫になることによって景気はv字回復したのだから、残りの五十はアメリカの伝統的な政策、すなわち戦争を起こして景気回復を図るいわゆる軍産複合体と呼ばれるものによって達成したことになる。

 敗戦時の日本においては教育勅語に表された国民道徳が生きていて、竹やりでアメリカと戦おうと思い詰めるまでに国民の戦意は旺盛であり、その国民道徳を背景に、共産主義分子による一億玉砕は叫ばれた。これは敗戦と同時に一転して、一億総懺悔のスローガンとなり、共産主義思想による日本国民洗脳の準備段階に入った。共産分子にとってはスターリンの敗戦革命論のシナリオに沿って日本解体が進められていたのである。これを牽制したのが、冷戦の勃発によって、共産主義容認の傾向から決別したアメリカだったが、根っこにある思想的親近性まで決別したわけではない。
 アメリカもまた、彼らに都合の良いように、日本国民を統制支配し、罪悪感を植え付けることで洗脳しようとした。
 われわれ戦後日本に蔓延する反日歴史観、いわゆる東京裁判史観とはそれらの混淆物だ。

 税政に限って言えば、GHQは税収の目標額を設定し、それに達しない場合は税務署員を呼び出してはっぱをかけ、それでも成績が悪い場合はその管轄の税務署長を更迭するよう指示した記録が残っているという。すでに納税申告制度を採用していた日本人は、このGHQの悪税政に対し非難ごうごうであった。それだけでなく、GHQは大蔵省の予算編成権にも介入した。GHQの呪縛はいまだに財務省に受け継がれていて、日本はこの面でもいまだに独立した国家とは言えないのが現状のようだ。

 話を明治草創の時代に戻すが、廃藩置県後の大蔵省を後見した翁は、税政に関しては原則論以上の知識、見識は持ち合わせていなかったように思える。
当時大蔵省の官僚であった渋沢栄一が語る次のようなエピソードがある。これは『青淵回顧録』や『論語と算盤』などに同趣旨の談話があるが、長いものでもあるので、やや端折って述べることにしよう。

 渋沢栄一は幕末すでに翁とは顔見知りであった。郷土を出て志士気取りで京都辺りをうろうろしていた渋沢は、相国寺の翁の宿をしばしば訪れて、時事を談じたことがあった。当時の青年の間では、知名な人たちを訪問して、その話を聞くということが流行っていたという。
 翁は渋沢に対し、お前はなかなか面白い男じゃ、食い詰めてやむなく放浪しているわけでなく、恒産があるにもかかわらず、志を立てたのは感心な心がけじゃ、今後も時々遊びに来るが良い、と言ったという。というのは、渋沢の実家は富農で、将来的に何ら生活に困る心配がなかったからである。翁は渋沢を気に入り、晩飯の豚鍋に誘って、同じ鍋をつついたこともあった。
 この関係は渋沢が一橋家に仕えるようになってからも続いた。
 その後、渋沢は慶喜の実弟のフランス留学に随行したので、王政復古前後の争乱時には日本を留守にしていたが、帰国後しばらくして、その財政に対する才腕が認められて、大蔵省に出仕し、井上馨の下で仕事をすることになった。
 その後、翁と会うことはなかったが、廃藩置県後のある日、翁が突然、神田猿楽町の渋沢の自宅を、ひょっこりと訪ねてきたことがあったという。渋沢の記憶では、明治四年の秋頃だったという。
 当時参議の翁が、大蔵省の大蔵大丞という一官吏の邸宅を、供も連れずにいきなり訪問してきたものだから、渋沢は驚いた。
 渋沢が、御用が御座いましたら、私が伺いますのに、と挨拶すると、翁は磊落に「いや、今日は君に頼みがあって参ったので公用ではない」と言った。
 翁の用件とは、大蔵省が廃止しようとしている相馬藩の興国安民法は、二宮尊徳の案出した優れた財政制度であるから、これを存続できるよう何とか取り計らってもらえまいか、ということであった。
 相馬藩では、興国安民法の廃止が大蔵省で検討されていることを知って、大蔵省に運動したが、却下されたので、同藩の尊徳の高弟数名が薩摩人と懇意であるところから、筆頭参議である翁に泣きついた。そこで翁は本来なら大蔵大輔の井上に話すべきところ、以前からその人物を認めていた渋沢に依頼しようとしたらしい。
 話を一通り聞いた渋沢が、翁に興国安民法のことを尋ねると、「大体は知っているが委しいことは知らぬ」との返事だった。
 そこで以前調べたことがあって、興国安民法をよく知る渋沢がそれについて詳しく説明すると、翁は「そんならそれは『入るを量りて出るを為す』の道にも適い、誠に結構なことであるから、廃止せぬようにしてもよいではないか」と言った。
 ここで渋沢は大蔵省の立場を参議に叩き込んでおく好機会と考え、自己の財政意見を述べることにした。

「二宮先生の遺された興国安民法は、要するに入るを量って出づるを為すの道に適った誠に結構な制度であります。従ってこの制度を引続き実行すれば、仰せの通り相馬藩は今後共に益々繁盛するでしょうが、今日の時勢は相馬一藩に於ける興国安民法の存廃を顧慮するよりも、更に一歩を進めて国家の為に興国安民法を構ずるのが一層急務であると信じます。」

 確かに廃藩置県の断行により全国的統一が成されようとしている今日、翁がしようとしていることは時代に逆行している。
 ここから渋沢は、大蔵省の立場を述べ、正院の大蔵省に対する態度を非難する。

「井上大輔初め吾々大蔵当局は、実にこの興国安民法を全日本に実施したいと切望し、日夜苦心努力している次第であります。然るに貴方を初め参議の方々は、これをさせまいとせられて居ります。こう申せば参議の方々を非議するようで甚だ恐れ入る次第でありますが、大蔵当局が非常に苦心して国家の財政の基礎を定めようとして居る場合に、兵部なり、文部なり、司法なりが太政官に向かって政費を要求すれば、大蔵省の意見を用いられずに、直ちに承認を与えられて居るような始末で、各省では太政官の許可を得たから是非政費を支出しろと大蔵省に迫って来るが、所謂無い袖は振られない道理で、吾々局に当って居る者は非常な困難を極めて居る実情であります。苟(いやしく)も政府を双肩に担われ国政料理の大任に当って居らるる貴方が、一小局部の相馬藩の為に遺法を存続せられようと奔走せらるるが、一国の興国安民法を御認め下さらないで一藩の為に心を労せられるのは、本末転倒の甚だしきものでその意を得ぬように考えられます。この辺の事に就いては宜しく御賢慮下さるよう御願い致します。」
 
 このように渋沢は平素積もり積もった不満を無遠慮に滔々(とうとう)とまくし立てた。しかし、それは全くの道理であり、翁に反論の余地はなかったといってよい。何と言っても翁自身、前年十二月鹿児島で岩倉に提出した意見書で、「上よりは府藩県一視同仁その間一点の愛憎雑(まじ)ゆべからず」と言っているのだから、廃藩置県後の今日はなおさらのことである。
 渋沢の主張は大蔵省と正院の齟齬・対立の原因を明確に浮き彫りにしてくれる。これだけの難題を押し付けられながら、その意見が正院の容れるところとならず、それだけでなく厄介もん扱いされるに至っては、局に当っている渋沢としては不満が噴出せざるを得なかったであろう。最初に翁が断ったように、公用ではなく、私的な頼み事で訪れたところ、逆に公論を突き付けられて多少は面食らったかもしれない。渋沢の批判を受けた翁は、最後まで黙って聴き終えたあと、重々しい口調で「そうか」とうなずいた。

「なるほど、聴いて見ると君の意見も尤ものように思うが、しかし俺(わし)は今日は君に物を頼みに来たので、議論を聴きに来たのではない。兎も角よく考えて出来るならばなるべく都合よくしてくれるように頼む。」

と、莞爾(かんじ)として笑い、渋沢の非礼を咎めることもなく家路についた。
 以後翁がそういった運動をした形跡がないところを見ても、渋沢の条理、公論に服したのだ。

 渋沢は、こういった翁の態度について、次のような感想を述べている。

「その寛仁大度は実に敬服の至りであって、大抵の人ならば末輩の私如きから斯くの如き無遠慮の理屈を並べられたら大いに立腹されぬまでも不満の色を表すであろうに、大西郷は少しもそういう気振りも見せず、笑って帰られたのである。而して相対して居る間にも、何とは無しに人を魅する大きな力があった。翌年征韓論が破裂した結果、大西郷は官を辞して、国許へ引揚げられたので、その後会談する機会を失ったが、今でも瞑目すると大西郷の風姿、言動等がありありと私の眼底に残っている。」

 最後におまけとして同じ談話から、渋沢の眼底に残る大西郷の風姿を掲げておこう。

「大西郷は体格の好い肥った方で、平常は如何にも愛嬌のある至って人好きのする柔和な容貌で優し味が溢れて居ったが、一度意を決しられた時の容貌は丁度それの真反対で、恰も獅子の如く測り知れぬ程の威厳を備えて居られた。所謂恩威並び備わるという御方であった。また賢愚に超越した大人物であって、平常は至って寡黙を守り、滔々と弁ぜられるなどという事は無かったので、外観によっては果して達識の人であるか、また愚鈍な人であるか、凡人には一寸分からない程であった。それに他人に馬鹿にされても、馬鹿にされたと気付かず、その代わり褒められたからとて、もとより嬉しいとも喜ばしいとも思わず、褒められた事さえ気付かずに居られるように見えたものである。併しその包容力に富んだ大度量と、不言の間に実行される果断と、他人の為に自分の一身を顧みない同情心と義侠心と、その他色々な方面から大西郷を観察すれば、真に将の将たるの大器を備えて居った偉人であったことが思われる。」

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
会計出納は制度の由って立つ所… 【西郷南洲翁遺訓】 第十四条 西郷隆盛/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる