西郷隆盛

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zoom RSS 文明とは… 【西郷南洲翁遺訓解説】 十一条

<<   作成日時 : 2016/12/23 17:26   >>

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文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず。世人の唱うる所、何が文明やら、何が野蛮やらちっとも分からぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り。西洋は野蛮じゃと云いしかば、否文明ぞと争う。否野蛮じゃと畳みかけしに、何とてそれ程に申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、左は無くして、未開蒙昧の国に対する程、むごく残忍の事を致し、己を利するは野蛮じゃと申せしかば、その人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑われける。


(大意)文明とは道が普く行われていることを称賛した言葉であって、宮殿の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華をいうのではない。世の人が唱えるところは、何が文明か、何が野蛮なのか、まったくわからない。
 自分はかつてある人と議論したことがあり、こっちが西洋は野蛮だと言えば、向こうはいや文明だと言い争いになった。自分がいや西洋は野蛮だと畳みかけると、向こうはどうしてそこまで言うのかと突っ込んできたので、西洋が本当に文明だというならば、未開の国に対しては慈愛の心をもって懇々と説諭して開明に導いていくべきなのに、そうではなくて、未開にして無知蒙昧の国に対するほど、惨く残酷なことをして、己の利益ばかり図るのは野蛮だ、と言い切ったら、その人は口をつぼめて返す言葉もなかったよ、と言って笑われた。

【解説】筆者は談話中に出てくる翁と議論した「ある人」とは大久保利通であったと思っている。明治六年五月二十六日、大久保は西洋視察から帰国したが、帰国後の比較的早い時期に両者の間に何かがあったのは衆目の一致する所である。
 海音寺潮五郎の『敬天愛人 西郷隆盛』に次のような逸話が紹介されている。

「西郷は大久保の帰朝をよろこんで、しげしげと訪問して、朝鮮問題を語りましたが、大久保はことば少なに合鎚を打つばかりではかばかしい返事をしなかったと伝えられています。
 前に庄内藩降伏の時のことを書きました時、高島鞆之助という人物が出て来ましたね。この高島の後年の思い出話にこういうのがあります。この頃も高島は西郷の書生のようにして、西郷についていましたが、ある日西郷について大久保邸に行きました。薩摩では仲のよい友人はよく寝ころがって閑談する風習がありますが、この日両人は座敷に寝ころがって談話していました。すると、二人の間に論争がはじまり、ムクッと西郷はおき上がりました。大久保もおき上がり、しばらくはげしい目でにらみ合っていましたが、西郷は立ち上がり、
『鞆どん、もどろ』
 といって、座敷を出て行きます。高島はあわててあとを追いました。西郷の様子は常ならず怒気をおびていて、高島はこわかったそうです。玄関まで来ると、西郷は高島をふりかえり、
『鞆どん。あそこへカステラが出とったなあ。うまかった。まだ大分のこっとった。おはん行って持っておじゃれ』
 といったそうです。その顔はもう平常にかえり、いたずら小僧のような表情だったそうです。
 しかたがありません。高島は前の座敷に引きかえしますと、大久保はまた寝そべっていましたが、ジロリと高島を見ました。カステラの鉢は大久保の横にあります。
『この菓子をいただいて来いという西郷先生のおことばでごわすから』
 と、恐る恐る言いますと、大久保は返事はせず、向うに寝返りを打ちました。高島は大急ぎでカステラを紙につつみ、おじぎして、玄関に引返しますと、西郷は待っています。
『もろうてまいりました』
『そうか、そうか、そらよかった』
 と、西郷はうれしげに笑ったというのです。高島は西郷の子供のような無邪気な一面を語ることとして後年語っているのです。
『時にはふるえ上がらんでいられないほど恐ろしかったが、こげんところはまるでいたずら小僧じゃったったなあ』
 というのがそのしめくくりです。」

 かつて翁の史伝を執筆したとき、この逸話の出典を探しきれなかったので確実なことは言えないのだが、高島と交際のあった徳富蘇峰の『近世日本国民史』にも同様の逸話が紹介されているから大筋で事実であったと考えられる。
私が興味を持っているのは、二人が何のことで論争を始めたのかということである。
 これについて海音寺は次のように解釈している。

「西郷の一面を語る話としてまことに貴重な話ではありますが、私ども後世の歴史研究者としては、その時の両人の間の会話はどんな内容であったか、その方を知りたいのです。朝鮮という一語だけでも記憶していてもらったら、どんなに有難いかわからないのですが、高島はそれに触れないのです。人間が阿呆で、関心がなかったために記憶していないのか、大久保にはばかって触れなかったのか、いずれにしても残念至極です。
しかし、多分、話題は朝鮮問題だったことは、ほぼ間違いないでしょう。西郷は大久保の帰朝当時はせっせと訪問したが、やがてフッツリと行かなくなったというのですから。」

 確かに二人の会話に朝鮮問題が話題として上ったこともあっただろう。しかし高島が朝鮮問題に触れなかったのは、彼が阿呆なためでも、関心がなかったためでもないだろう。高島は『大西郷秘史』や「報知新聞」のインタビューなどで、この朝鮮の問題について触れているから、特に大久保に憚ったということもなさそうである。
 おそらく高島が記憶していないのは、それが抽象的な議論だったからではないかと思う。このエピソードに、翁が語ったある人との議論をはめ込むと、まるでパズル絵のワンピースのようにぴったりと収まるのだ。
 
 具体的に、大久保の文明観はどのようなものであったのだろうか。
 大久保はロンドン滞在中の、スイス留学中の大山巌宛の書簡(明治五年十一月二十日付)に、米英を視察してみての感想を「盲聾にていかほど駆け廻り候ても、ただ形容をなでまわすのみ。いわゆる履を隔たるの心地にて、時としては長歎せざるにもあらず。」とその真情を吐露している。「いわゆる履を隔たるの心地」とは隔靴掻痒(かっかそうよう)で、開化の外形を見ることはできても、そこにあるはずなのに核心に迫ることができず、もどかしく長歎することもある、ということである。
 この言葉について、大久保について詳しい佐々木克氏は次のように考察している。

「おそらく大久保は、イギリスの工業化、富強が、いかにして達成されたのか、たんにテクノロジーや方法の問題ではなく、政治をも含めた総合的な技術として学ばなければならぬと考えていたにちがいない。模倣や移植では、イギリスと日本の近代化の達成における巨大な距離は縮まらない。いかになすべきか、大久保は悩み弱気になっていた。」(『大久保利通と明治維新』)

 その通りだろう。
 しかし、それは総合的ではあっても、どこまでも技術や方法に関する関心であり、文明の本質にかかわる関心ではない。総合的な技術であるにしても、それは模倣や移植の域を出るものではないのである。
 西洋文明の本質とは、彼らが生活の規範とし、国民的統合の価値観となっているキリスト教や、産業革命に至る大久保らの時代から見ての近現代史だけでなく、歴史的に遡って、彼らの教師となった先進文明たるローマやギリシャの古代文明に対する考察までをも含む、根源的かつ哲学的命題にまで挑まなければ得られないはずのものであった。たかが数ヶ月の滞在で探り得るものではない。
 しかも、大久保はその関心があったはずの総合的な技術や手法の問題に限っても、その答を見出すことが出来ず、西洋文明の形勢に圧倒され、茫然自失に陥ってしまったのである。そこで彼は「英米仏等は…開化登ること数層にして、及ばざること万々なり。依りて孛・魯(プロシヤ・ロシア)の国には必ず標準たるべきこと多からん」と西洋の後発国プロシヤとロシアに期待した。
 そんな彼が蘇生の思いをなしたのが、フランスにおいて大統領チェールに面会したことに続いて、プロシヤにおいて宰相ビスマルクに面会する機会を得たからであった。
 チェールについて大久保は、西徳二郎宛の書簡で次のように述べている。

「当府(パリ)も先ず平穏に候えども、何分一定と申す場に至り兼ね候向き。大統領チェー(チェール)なる者は断然不撓、圧制いたし居り、さすが豪傑と相見え、この翁存命中は若しくは持ち留め申すべきかと思われ候。」(明治六年正月二十七日付)

 何とその圧制ぶりに感服しているのである。幕府の専制を非難して、「万機公論に決す」を掲げて、新政府を立ち上げたはずの大久保が、である。それだけ彼の日本の内治に対する危機意識は深刻だったと考えるべきなのだろう。
 
 チェールはカール・マルクスが「あの醜怪な一寸法師のチェール」と呼んで、最大限の悪罵を投げつけた小柄の老人である。一八七一年(明治四年)三月中旬から五月末にかけてパリ・コンミューン党を徹底的に弾圧しこれを一掃した。大久保がこれに心酔するとは、思想的後退あるいは転向でなくて何であろう。

 次に大久保は南洲・吉井宛の書簡においてプロシヤ訪問の感想を次のように記している。

「当国(プロシヤ)は他の欧州各国とは大いに相異なり淳朴の風これあり、殊に有名なヒスマロク(ビスマルク)モロトケ(モルトケ)等の大先生輩出、自ら思いを属(しょく)し候心持に御座候。」(同三月二十一日付)

 また彼は西徳二郎宛の書簡においては次のように記している。

「当国の処は欧州中にて全く風俗人質も相変わり、少しく淳朴の赴きこれあり、各国の内にて相近きものこれあるべくと存じ候。さりながら逗留も十分ならず、日々交際上にて寸暇もなく、その真味は噛み得申さず候。ビスマロク・モロトケ等の大先生に面会したるだけが益とも申すべきか。御一笑下さるべく候。」(同三月二十七日付)

 このように正直にプロシヤ文明の真味を解さなかったことを述べている。ましてや開化登ること数層の英米においてをや、だ。
 ビスマルクは三月十五日、外務大臣として、岩倉ら大使一行を招待し懇談した。
 彼が説いたことで大使らの印象に残ったのは次の談話であった。

「方今世界の各国、皆親睦礼儀を以て相交わるとはいえども、これ全く表面の名義のみにて、その陰においては、強弱相凌ぎ、大小相侮るの情形なり。予が幼時において、我が普国(プロシヤ)の貧弱なりしは、諸公も知る所なるべし。この時にあたり、みずから小国の情態を閲歴し、常に憤懣を懐きしことは、今に耿々(こうこう)として脳中を去らざるなり。彼のいわゆる公法なるものは、平常は列国の権利を保全するの典憲と言うと雖も、大国の利益を争うや、己に利益あれば、公法を取りて少しも動かず。もし不利益なれば、翻すに兵力を以てし、固より常守あること無し。小国は孜々として辞令と公理とを省顧し、敢て閫限(こんげん)を越ゆること無く(閫は門、つまり権利が拡張できないことを言っている)、以て自主の権利を保全せんことを勉むるも、その簸弄(はろう、弄びみだすこと)凌侮(りょうぶ、凌ぎ侮る)の政略に当れば、殆んど自主の権利を保全する能わざるに至ること、毎々これあり。」

 ビスマルクはこのように西洋国家間における公法の実態を暴き出した。しかし、そんなことはビスマルクに説かれるまでもなく、幕末以来の西洋列強との交渉で大使一行は熟知していたはずである。それでも敢えて万国に公道を布こうというのが、明治維新が高らかに謳い上げた精神だった。
 続いてビスマルクは自身が小国プロシアの宰相として為したことの心事について述べた。

「是を以て慷慨(こうがい)し、一度は国力を振興し、一国対等の権利を以て、外交を為すべきの国とならんと思慮し、愛国心を奮励すること数十年を積んで、遂に近年に至り、わずかにその希望を達することを得たるも、畢竟各国に対し、一国自主の権利を保全せんと欲するの志願に過ぎざるなり。」

 弱小国日本の未来を担う指導者として、ビスマルクの発言に共感を覚えたのも無理はなかったという気がする。
 さらにビスマルクはそれに対する列強の猜疑心について述べる。日本にとって非常に予言性の高い洞察である。

「しかるに各国は皆当国の兵を四境に用いたる跡を見て、憎悪の心を生じ、みだりに軍略を喜び、人の国権を侵掠するものと非譏(ひき)するに至る。是全く予が国の志願に反せり。予が国は唯々自国を愛重するに由り、各国互いに自主し、対等の交をなし、相侵越せざる公正の域に住せんことを希望するものなり。従前の戦争も、日耳曼(ゲルマン)国の国権を保全する為、已むを得ずして兵を用いたることは、世の識者は必ず識認するなるべし。聞く所によれば、英仏諸国は海外に属地を貪り、物産を利し、その威力を擅(ほしいまま)にして、諸国は皆その所為を憂苦すと。欧州親睦の交際は、未だ親を置くに足らず。これ予が小国に生まれて、その情態を熟知するにより、尤もよくその意を了解する所なり。」
 
 日本もまた日露戦争後、大国と認められて、英米から同じ猜疑と憎悪を受けることになる。そして今更ながら米英親睦の交際は全く親を置くに足らないと覚るに至るのだ。
 第一次大戦において帝政ドイツは袋叩きに遭い、崩壊した。帝政ドイツから多くを学んだ大日本帝国もまた第二次世界大戦において米英(主役は米に移行していたが)の袋叩きに遭い、崩壊した。崩壊したドイツは、英仏にレモンの種が泣くまでドイツを絞れ、と天文学的な賠償金を課され、貧困に喘いだが、これが後にナチスの台頭を許すことになる。そして第二次世界大戦において米英に完膚なまでに叩きのめされると、米英およびソ連の対立によって東西ドイツに引き裂かれた。

 しかし、日本の敗戦は、ナチス・ドイツではなく、帝政ドイツの崩壊と比較されるべきものであろう。
 実は帝政ドイツ最後の皇帝で、第一次世界大戦の原凶ともなったヴィルヘルム二世こそ、昭和天皇の反面教師だったのである。
 生まれながらのドイツ皇帝として帝王学を欠いたヴィルヘルム二世は、一世がビスマルクやモルトケを重用したのとは異なり、即位後、この直言憚る所のない先代からの老重臣達を遠ざけ、結果、近臣に欺かれ、第一次世界大戦という未曾有の戦乱を勃発させた。しかし彼は敗戦の責任を取らず、オランダに亡命して、戦火で荒廃した国土と、高額の賠償金で貧困に喘ぐ国民を置き去りにしたのである。
 これに対し昭和天皇は、これもまたナチス・ドイツによって始められた第二次世界大戦において、敗戦の聖断を下し、マッカーサーのもとに自ら足を運び、日本国民のための自己犠牲を申し出られた。それに感服したマッカーサーは従前の態度を改めたといわれる。そもそもマッカーサーは、厚木に降り立つ際、民主主義の何たるかを知らぬ未開野蛮の土民日本人とその酋長たる天皇を懲らしめ、これを捕虜にした位の感覚しか持っていなかった。マルクス主義の一派フランクフルト学派の二段階革命論の影響を受けたアメリカの占領政策もあったにせよ、このことが東京裁判による天皇不起訴に大きな影響を及ぼしたことは間違いのないところであろう。少なくとも昭和天皇が国民と苦労をともにしようとされたからこそ、未曾有の敗戦のなかで、日本人の精神は致命的な混乱にまで陥ることもなく、そのことがドイツのようなナチスの台頭や、国土の分断という悲劇を招かずに済んだのだといえる。
 
 このように征韓論分裂後敗戦に至るまでの近代日本の歩みは、まさにビスマルクが予言し、彼らが辿った運命に近いものがあったが、同じ運命になるのを辛うじて防いだのは、日本の伝統の保持者たる皇室の存在であり、行為であったというのは日本の國體と未来を考える上で、非常に示唆的である。まさにその、多くの歴史的教訓を含んだ、我々のお手本ともいえるのが明治維新なのであった。

 さて戦前の日本の行為を擁護する立場の人が口にする言葉が、特命全権大使一行に語られたビスマルクの言葉と基本的に同じ論旨なのは偶然ではない。その精神と置かれた立場において通ずるものがあったのである。
 彼に共鳴を受けた大使一行が帰国して、明治維新の王道精神の規模を進取的にこのまま拡大せんとしている翁らを排除して、その路線を引いたからである。明治政府はビスマルク路線が主流となった。それは列強の猜疑と憎悪を受けるというその立場をも潜在的に受け継いだのである。(それが顕在化したのは、日露戦争後の対米関係においてであったが、多くの日本人はこれに気付かなかった。これもまたその後の日米関係を形作った悲劇的要因の一つであったといえるかもしれない。)

 維新後戦前までの日本の立場は非常に難しいものがあり、ビスマルク路線を引いた彼らを安易に批判する気はない。西洋を実見して、その文明の形跡の格差に圧倒されていたことを考慮すれば、止むを得ない面もあっただろう。
 しかし、それが、文明観や國體という根源的認識において根本的な誤りがあり、どう考えても、それが最善かつ賢明な選択であったとは思われないのである。外遊組は最新の西洋事情については明るかったが、日本の内政や東アジア周辺の政治については、むしろ情勢認識その他の面で二年間精神活動を凍結させていたのであり、国内の政治から離れなかった翁らの方にその辺をよく認識していた人物が多かった。外遊を経験したものの中にも、土佐藩出身の佐々木高行のように、西洋文明におけるキリスト教に当たるものとして、神道ではなく儒教を挙げるものもいたのである。
 
 少なくとも翁や外務卿の副島種臣は支那思想に精通しており、日本にとっての先進文明としての古代支那文明に対する理解があり、西洋文明の教師としてのギリシャ・ローマ文明の存在や日常的かつ統合的規範としてのキリスト教の存在を意識し、文明の根源にあるものを直観することが出来ていたのではないかと思う。遺訓の言葉はそれを表しているであろう。翁らの征韓論は、そういった文明観を前提に成り立っているものであった。

 それを強引なやり方で排除した外遊組。彼らが征韓派を排除して為したアジア外交こそ、支那の猜疑を招き、やがては列強の日本に対する猜疑心を増幅させるに至るのであるから。その起点のところに征韓論争による政府の破裂がある。大久保の陥った過ちは、彼なりの皇室への忠義心と誠実さから来るものであることは論をまたない。しかし、政治家は結果責任こそ問われなければならないとするならば、大久保のこの責任が問われなければならないだろう。

 翁は文明とは道が普く行われていることを称賛した言葉であるという。そして、本当に文明ならば、未開の国に対しては慈愛の心をもって懇々と説諭して開明に導いていくべきだという。もちろんこれはいわゆる征韓論の中の使節派遣論にも応用されている思想だ。説諭のための使節だから、武器も兵も帯同しない。当時の政府最大の大物と言っていい、参議兼陸軍大将にして近衛都督の翁が勅命を請けて単身礼装で乗り込めば(板垣退助によれば翁は烏帽子直垂の礼装で、と主張していたそうだ)、その主意と誠意はきわだち、誰の目にも、いかに頑迷な者の目にも明らかとなろう。

 一方で本来ならその任に当たるべき外務卿副島の使節派遣論は万国公法に則り、護衛艦とともに朝鮮に乗り込むという内容であったから、翁は道(文明)の観点から、それを抑えて、自らこれに当たろうとしたのである。それでも大使を殺すほど李朝が未開頑迷で野蛮なら、その時初めて、わが国の正義、相手国の罪は明らかとなるから、兵を派遣して罪を問えばよい。世界もこれを非と認めるであろう。それは道を普く行おうとの信念から生まれた主張であり、単なる平和外交とも異なる。

 前回も触れたが、普遍的な価値と普遍主義は必ずしも同じではない。普遍的な価値は人間の本性に即して発生する自然的価値であるからこそ普遍的なのであるから、人間生活に内在するその価値を自覚させるには慈愛の心をもって懇々と説諭するという形をとるはずだ。常識をもって考えればそうなる。それを物質文明・技術文明の優位をかさに着て、銃口を突きつけて強要するような普遍主義は、いくらきれいごとを並べてみても、そのやり方がその主張するところの普遍的価値を自ら否定していることになる。その上、利を貪るともなれば、それは共存共栄という道ではなく、昔ながらの支配と隷属という動物的本能そのままの行為であって、彼らが唱える普遍的価値は支配と搾取の口実となりはてて、これを文明とは言わない。近代数百年の西洋の歴史はこのことを如実に物語っていて、現在もこれは変わっていない。儒教の言葉でいえば覇道である。文明を道とする主張からみれば、西洋列強が行っているのは今も昔も覇道であって、王道(天道)ではないのだ。

 未開にして無知蒙昧の国とは自足した生活を送ることができて、他者を認識することも、内省する必要にも迫られなかった未成熟な国か、あるいは反対に、絶対権力の苛政に隷属を強いられ、あるいは内部抗争に明け暮れて世界に目を開く余裕のなかった国のことだが、そういった国々に対して惨く残酷なことをして、己の利益ばかり図るのは、これも利欲という動物的本能に突き動かされた行為であるから文明とは言えない、野蛮だ、となる。
 こういった文明観は日本の一般国民にとってすでに血肉となっているのではないだろうか。

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