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zoom RSS 幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し… 【西郷南洲翁遺訓解説】第五条

<<   作成日時 : 2016/11/08 17:05   >>

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或る時、「幾歴辛酸志初堅 丈夫玉砕愧甎全 一家遺事人知否 不為児孫買美田(幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し、丈夫玉砕して甎全を愧ず、一家の遺事人知るや否や、児孫の為に美田を買わず)」との七絶を示されて、若しこの言に違いなば、西郷は言行反したるとて見限られよ、と申されける。


(大意)ある時、翁は「幾たびか辛く苦しい思いをして始めて志は堅くなる、男というものは玉となって砕けることを名誉とし、保身に走ることを愧じるものだ、わが家訓を人は知っているだろうか、子や孫の為に決して大きな財産を残さないということを」という意味の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあったならば、西郷は言行が反したとして見限られよ、と申された。

【解説】家訓は、家の虚飾や繁栄のために蓄財の努力をしないということで、前条にあった明治政府の一部官僚に対する批判に通じている。丈夫とは、志を堅持して、公に当たる人間を言うのであり、蓄財は公に対してはどこまでも私の営みである。私欲に対する戒めは、遺訓を一以て貫く態度であるといえる。 
 これは『論語』や『孟子』などにも一貫する訓戒であって、「政は正なり」、「子帥(ひき)いて正しければ、だれか敢て正しからざらん」、「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上(くわ)えれば必ず偃(ふ)す」という訓戒から言えば、人の上に立つ人間が、私欲を満たすために、他者と利害を争っているようでは、「王政復古の大号令」や「五箇条の御誓文」に象徴される理念に則って、天皇政治を興隆させることはできないのである。

 これは風紀という面からわれわれの血肉になっている考えだと思われる。卑近な例を挙げれば、時間厳守の社会ルールを説く上司や教師が遅刻ばかりしていては部下の士気や規律が乱れるのは自然の勢いであろう。
 組織に綱紀粛正の自浄力がなければ、組織の腐敗堕落にブレーキをかけることはできない。自浄能力のない組織の腐敗にブレーキをかけるには外部から圧力を加えるしかない。しかし、政府の場合、軍や警察という暴力装置を持っている。これに圧力を加えるためには、外部からは、より大きな勢力、すなわち外国からの圧力か、暴力に頼らざるを得なくなるのが実情である。維新を経験した人々にとって外圧の過度の利用は国家の自尊自立の立場からご法度であったから、暴力的抗争である明治七年「佐賀の乱」から十一年の大久保暗殺までの内乱の時代は必然的であったといえる。

 明治維新は理想の実現のために社会の各階層が傷ついていた。特に士族は自己犠牲の精神により、自己の権益を放棄している。しかし、社会の大半の人々はその理想を自己の理想としているわけではない。だから、改革に対する社会不満も大きく、指導者が自己の利益を謀ってばかりいるように映っては、理想に向けて指導力を発揮することは難しい。不満はやがて面従腹背となって、公の意識を後退させる。その結果、下々も利を争うようになってしまうのがオチである。

 翁が自己を厳しく律していたのは、このような認識があったからであることは遺訓の熟読玩味からよくわかる。その点、「為政清明」をモットーとする大久保は、自己の生活態度として、蓄財を図るようなこともなく、これを守ったが、こういった社会全般に対する政治認識には欠けていたように思われる。

 翁や大久保を中心とする同志たちは討幕の論功行賞である賞典録を受け取らず、将来の人材養成のための賞典学校などに惜しげもなく寄付した。

 ここで、明治八年、鹿児島の西郷邸を訪問した旧庄内藩士石川数正の紀行文から、西郷邸の様子を引用しておこう。

「この武村の御邸は囲いは柴垣にて門はほそき柱の掘建なる、小さき木札に西郷吉之助とあり。門の右手は物置小屋にて猟犬を此処に繋ぎおかれ、左手は家の入口にて土間になり、別に玄関のしつらえもなく訪問の人々はいつも庭の方へ廻りて御座敷に上りたり。
 その御座敷は前に大いなる松四五本あるのみにて遠く市街より桜嶋を望む。景色絶佳というべし。屋内には四方の壁にワシントン・ナポレオン・ぺートル・ネルソン四人の額をかけられ、床には白鶴と落款せる書幅の外飾り物等なく、傍えの机に、硯反古等を載せあり、寅太郎氏にても手習いせられしと思わる。」

 物や虚飾に満ちあふれた現代から見れば、逆に贅沢な住環境ともいえるが、当時の感覚からすれば中流武士のそれであり、ほんの数年前まで参議兼陸軍大将を務めた人物としてはあまりに質素であったといえるだろう。

ところで、寅太郎の手習いからの連想で、「秋曉」と題された翁の漢詩を思い出した。

蟋蟀(しつしゅつ;コオロギ)声喧(かますび)しくして草露繁く、
残星影淡くして頽門(くずれた門)を照らす、
小窓座を起って児輩を呼び、
温習督し来って魯論(論語)を繙く。

 これを裏付ける寅太郎の「朧に浮ぶ父の面影」と題された回想があるので引用しておく。

「…私ら兄弟ならびに従兄の隆準らは、父が沖永良部島流謫中、昵懇であった川口雪蓬翁から、読書を授けられていたが、何れも悪戯盛りとて、却々雪蓬翁の言う事を聞かないので、見るに見兼ねた父は、ぢや俺が一つ教えてやろう、と約一週間ばかり自ら教授してくれたが、どうにも思うように行かぬと見えて、自分の子供は自分で教育するのはよくない、とまた川口翁に一任した。…」(『大西郷秘史』)

 この一週間のことを読んだ漢詩だったのだろう。テキストとしては『論語』が用いられたということになる。

この寅太郎の回想には物心つくかつかないかの頃に死別した、今は亡き父の家庭における思い出が感慨深く語られているのであるが、次のようなエピソードも語られているので紹介しておこう。

「…時はやはり武村の寓に、晴耕雨読の閑散な日を送っていた頃である。自分は幼少な頃非常に小鳥が好きで、籠に飼っては愛翫していたが、一日の事、大事なこの小鳥が死んでしまったので、惜しいやら、悲しいやら、母にせがんで、代わりの小鳥を買ってくれと、駄々を捏ねて泣き騒いでいた。折柄、父は裏の畑で仕事をしていたが、やがて一呼吸入れようと椽先に腰をかけ、じっと私の泣くのを見ていた。母はすぐに煙草盆に火を入れて持って行くと、父は黙々として煙草を喫(す)いながら泣き騒ぐ私をなおも凝視していたが、あまりに駄々の捏ね様が激しいので、突然私を鷲づかみにして、鉄の岩丈(頑丈)な煙管に、まだほんの火を点けたばかりの煙草の詰まっているのを、グイと首筋に当てがった。
熱いの!熱くないの‼恐いの!恐くないの‼ 生来これ位恐ろしい事はなかった。だが父は一喝だもしないのだ。さらでも恐ろしい眼がギロリと光ったのみであった。私は熱いやら、恐ろしいやらで、極力父の手から逃れようと、もがきにもがくと、コロリ‼ 煙管の火は落ちて、首すじから背中を伝った熱さ、実にこの時ほど恐ろしいと思った事はない。」

欲に対する戒めは、家庭内でも一貫していたのである。
 

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