西郷隆盛

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zoom RSS 廟堂に立ちて大政を為すは… 【西郷南洲翁遺訓解説】第一条

<<   作成日時 : 2016/10/05 07:52   >>

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廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、いささかとも私を挟みては済まぬものなり。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能くその職に任(た)ゆる人を挙げて政柄を執らしむるは即ち天意なり。それゆえ真に賢人と認むる以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶わぬものぞ。故に何程国家に勲労あるとも、その職に任(た)えぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一なり。官はその人を選びてこれを授け、功ある者には俸禄を以て賞し、これを愛し置くものぞ、と申さるるに付き、然らば尚書(『書経』)「仲虺之誥」に「徳懋(さか)んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」とこれあり、徳と官相配し、功と賞と相対するはこの義にて候いしやと請問せしに、翁欣然として、その通りぞ、と申されき。


(大意)政府に立って天下の政(まつりごと)を行うのは、天道を行うことであるから、少しでも私心を差し挟んではならない。どんなことがあっても心を公平にして、正道を踏み、広く賢人を選んで、よくその職務を果たせる人物を挙げて、政治権力を与えることはすなわち天意である。それゆえに真に賢人と認めた以上は、直ちに自分の職務を譲る程でなくては天意に悖ることになる。であるがゆえに、どれほど国家に勲労あろうとも、その職務を果たせない人物に官職を以て賞与となすのは一番よくない。官職はその人物を選んでこれを授け、功ある者には俸禄を以て賞与となし、これを愛し置くものである。そう翁が申されるので、ならば『書経』の「仲虺の誥」に「徳のすぐれた者は官位を上げ、功がすぐれた者には褒賞を上げよ」とありますが、徳と官を適合させ、功と賞を対応させるのはこの意味でしょうかと伺ったところ、翁はお喜びになられた様子で、その通りだ、と申された。


【解説】廟堂とは主君の祖宗を祭る霊廟(宗廟)のある朝廷のことで、そこで行われることの中心は「まつりごと」、すなわち祭祀祭礼である。現代のわれわれが想起するところの政府ではない。この場合、主君とは天皇を指す。民から選ばれ、民の安寧を皇祖皇宗に祈り続けておられる天皇陛下の認証を受けた大臣や官僚が、その期待に応えるべく、全力を尽くす。もっと当時の武士道に基づいて儒学的に理解するなら、天命を受けて、徳を積むことで天下を治めておられる天子様の委託に応えるべく大臣や官僚が人事を尽くす、そういうイメージの政府である。
 皇祖神たる天照大神を中心とする天神地祇を祀る宗廟で行われる祭儀は、神々の加護を得て天下の安寧を祈ることであるから、神事である大政(天下のまつりごと)は天道であり、私心を以て執り行ってはならないのである。これは、神社に行って利己的なことばかり祈願する一般大衆にはわかりにくいことかもしれない。
 この伝統を守り、行っていく具体的な努力が「政事」である。
 われわれ現代人が想起する「政治」という概念の内容は、本来ならそのほとんどが「政事」の範疇に入る事柄である。維新の当時、西洋列強の侵略に脅かされていた時代であるから、とりわけ『富国強兵』のスローガンで「軍事」が重視された。現代でもこれは継続していて、問題は複雑多様化し、「政事」が国民の営みにとって大変重要であることに変わりがない。
 ただ、その職に任(た)ゆる人を挙げて政柄を執らしむる、といってもその人物が払底しているのが現状でないか。というのは、本来的な意味における「まつりごと」としての「政治」は、日本においてはなすべきことが決まっているにもかかわらず、「政事」の場においてはそれを否定するどころか、むしろ破壊するような動きがみられるからである。

 皇位継承の問題などは、本来なら神事である「まつりごと」に属する事柄であって、「政事家」ごときが論ずべき問題ではない。にもかかわらず、有識者という政治的無責任者が、「政事」家たちによって選挙されて、皇位継承の在り方、特にその改変を目的とした諮問会議を私心のままに行っているのである。つまり、彼らにはその本職における社会的功績はあるかもしれないが、公徳を持ち合わせていない。無心になって、皇室の歴史的な在り方について謙虚に学んで、その上で皇室のこれからの在り方を論じようという姿勢に欠けている。だから結局は「政事家」の思惑に沿った結論を出すよう期待された人物が選ばれて、会議構成員選定の時点で結論はほぼ定まっている。結局は世論誘導の目的で、有識者の判断という折り紙をつけるために設置される会議といっていい。
自称他称ひっくるめて、世に政治家と称される人々の大半は「政事家」であるから、これをおかしいと思わないし、世論はこれを不思議と思わないほど迷妄に陥っている。民主政治のコツは宣伝工作による世論誘導であるから、宣伝工作に勝るものが事を有利に進めていくことになる。多数決原理とは所詮その程度のものである。

 維新の指導者は水戸学の影響を受け、また頼山陽の『日本外史』や『日本政記』に親しんでいたから、大政(まつりごと)における天皇親政という点では一致していて、政治におけるブレは少なく、対立は「政事」から生まれた。いわゆる征韓論破裂にしても、西南戦争にしてもそうである。
 ちなみに南洲翁の言葉にある、推すべき「賢人」とは賢明さと忠義心に優れた者であるし、「功あるもの」とは事を為す上で能力を発揮した人物、すなわち現実問題を処理する能力に優れた人物ということである。

 翁は明治五年頃、元紀州藩士で明治二年七月から和歌山県大参事となって藩政改革の実績を上げた津田出をいずれは内閣の首班にして、皆がその下について政府の改革を行おうと考えたことがあった。当時大蔵省を預かっていた大隈重信は津田の器量に懐疑的で、これに断固反対した。彼の談話によれば、翁は「この人こそは実に明治年間における第一流の人にして、その才の優に、その智の富たる、今日とてもこれに比すべきものあるべからず。もし太政裁理の重任をこの人に委託することとならば、余等は喜んで、その後に随うて趨走せん」とまで言って、大蔵省の栄職に推任した。大隈の峻拒にあった翁は「さりとは君も自ら才を恃みて他を凌ぐものなり」と面と向かって激しく非難したという。
 津田には一時木戸孝允なども一目を置いていて、また諫める人も多かったこともあって、大隈は彼に相当と思われる小職を与えたが、ろくにその職務をこなすこともできなかったという。とはいえ、これは能力の問題というよりも、彼の金権汚職体質のしからしむるところであったらしい。翁もまた津田の所業を知って「強欲の所業散々の次第」「全く山師の親玉」「ひたすら金を貪り候次第沙汰の限り」と失望している(明治五年二月一五日付大久保宛書簡)。「これ程大功を立て候者は、御一新以来これなく候ところ、利欲に惑い、功名水泡と相成り候儀、残念の至りに御座候」とも書いていて、その才はさておき、徳の全く欠けた人物であったようだ。
 要するに津田は馬脚を現したわけだが、翁も自身の彼に対する買いかぶりに気づいて、大隈のところに詫びに来たという。

 「さても人は見かけによらぬものなり。余は彼を以て実に当世一流の大人物となし、君を目してその才を恃みて他を凌ぐの狭量者となせしに、図らざりき、余が鑑識全く相違する、かくの如くならんとは。余は実に人を見るの明なきを慙(は)ず。幸いに深く咎むるなかれ。」

 こういった謙虚な態度を見て、大隈は、さすがに西郷は磊落である、と変な褒め方をしている。他にも「忠実の人」とか「仁人に近い」と言った評価も談話中には散見される。この一件は「過ちを観てここに仁を知る」といった類の事件で、取り返しのつかない過ちを犯したわけではない。孔子によれば、仁者は欺いて罠に誘い込むことはできても、陥れることはできないのである。
 しかし、維新の元勲として威権赫々で翁の人物を尊敬しつつあった大隈は、この一件から、翁の政治上の能力を疑うようになったという。そして疑念は一転して失望、さらに一転して苦心に変わった、と。 
 しかし、彼の批判はその内容からは明らかに「政事」的能力、すなわち事務処理能力・実務能力からみた批判なのである。彼の談話は自己正当化の念が強く、話半分で聞く必要がある。彼の談話を読んでいると、彼がひたすら西郷の存在を忌み畏れ、それでいてなお、その心的事実を認めたくないという心理が浮かび上がってくるのであるが、事実に関する証言には貴重なものが多いのも確かである。おそらく彼は西郷が自己の政事家としての存立を脅かす存在と直観的に見抜いて畏れていたのだろう。

 彼は西郷批判の後、廃藩置県断行前の西郷に対する不信から断行に至る経緯を語るのであるが、時間関係においては、彼らが第二の維新ととらえる廃藩置県断行の件は明治四年七月であり、津田の一件より前である。彼は自身の「政事」家としての能力に対する自惚れから、西郷の「政事」家としての能力に疑念を抱き、改革革新の障害になっているとさえ考え、これを倒す覚悟で、同類の井上馨・山縣有朋・江藤新平らと語らって、廃藩置県の断行を申し込んだ。意外にも西郷はあっさりこれを了承し、むしろ彼が反対者に対する武力討伐の覚悟を示すことで、大改革は無血のままに成功したのである。疑念はむしろ尊敬の念に変わった。山縣は終生それを失わなかったし、江藤新平もそうである。大隈の談話にあるように、この一件ではさすがに、彼ら気鋭の官僚よりも「政事」家として優れた能力と徳を合わせ持つ大久保利通や彼らの庇護者であった木戸孝允でさえ無力であったから、廃藩置県は翁の「政治」家としての存在感と実力が成功せしめたといっても過言ではない。これは衆目の一致する所だろう。

 大隈は後年、西郷を辛らつに批判する一方で、反対に大久保の人物を称賛してやまなかったが、この時の改革を前にして、焦眉の問題の一つとされていたのが、省庁間の対立であり、その要因で有能でありながら腐敗堕落の温床となっている官僚組織の改編、および横暴な官吏の黜捗を行う事であった。その最大のターゲットと目されていたのが、大隈であり、井上であったのだ。この認識において翁と大久保は一致しており、二人とも大隈の更迭を主張していた。それに強く反対したのが木戸であった。そこで改革は暗礁に乗り上げた。木戸はこのたびの政府改革を廃藩置県の前段階の改革と位置付けていたが、座礁するならいっそのこと、ということで政府は急きょ廃藩置県断行へと飛躍したのである。少壮官僚からの「政事」的立場からの廃藩置県の提言が重要だったのは間違いないが、彼らのような当局者の立場からは視野に入らなかっただろうが、それを現実に成し遂げた「政治」に目を向ければ、翁の存在の大きさがわかるはずである。翁は分裂しがちであった人心をその徳で、辛うじてではあったかもしれないが、確かに支えたのであるから。
 それが引き続き遣欧使節団派遣の支えともなった。

 しかし、このとき等閑にされた官僚間の対立の解消の問題が導火線となって、やがて明治六年の政府破裂となり、後の内乱続発の遠因になることを思えば、徳と官を適合させ、功と賞を対応させるという原則は、廃藩置県の前の地ならしとして、是が非でもなしておくべきだったのである。しかし、現実は無理に無理を重ねた結果、政府は破裂に至り、維新の成果は思わぬ方向に迷走を重ねることになった。 

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