西郷隆盛

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zoom RSS 西郷隆盛の命日 (平成二十八年九月二十四日)

<<   作成日時 : 2016/09/24 18:25   >>

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現在、何か一巡したような気がしている。

本日は西郷南洲翁の命日である。

二〇〇六年に『(新)西郷南洲伝』の上巻を出版してからちょうど十年。
下巻の出版はその二年後の二〇〇八年だったが、それ以降、維新回天の前提となった日本の伝統について掘り下げて考え始めて、先月末にようやく江戸時代の学問の大河を書き終えた。
 後期水戸学と頼山陽について書いたが、その総仕上げが幕末維新となる。

 内村鑑三は名著『代表的日本人』の冒頭に西郷隆盛を取り上げて次のように言っている。

「維新革命における西郷の役割を十分に記そうとすれば、革命の全史を記すことになります。ある意味で一八六八年の日本の維新革命は、西郷の革命であったと称してよいと思われます。」

 十年前にその伝記を書いたわけだが、上巻に関しては「あとがき」でも書いたが、世に問うことを優先した未熟な作品であり、いずれ書き直す必要があると考えていた。手探りで書いたこともあり、どうしても読みにくい本であることは間違いなく、アマゾンの書評に誰かが書いてくださっていたが、西郷の西郷たるゆえんがよく考察されているが、字句が難解で読みにくく、書き直してほしい、との要望がかれていたのはもっともなことだと思った。
 読んでくれた知人の多くも同様の読後感を伝えてくれていた。

 ただ自分は未熟な自分をさらけ出した無鉄砲な上巻を書くことによって、大西郷の拐~の核心をつかんだのであり、それ以降の、征韓論政変を経て西南戦争に至る叙述内容については少し加筆すべき点はあるかもしれないが、特に修正する必要を感じていない。
 あるとすれば筆先の円熟である。

 西郷びいきが強すぎるとの感想もいただいたことがあるが、これは評伝ではなく(もちろん評伝的要素もある)、西郷隆盛の伝記であるから、彼中心の叙述になるのは当たり前であり、しかも作家でもない自分があえて書く価値があると思うからこそ、謎を解く手がかりを得た以上は、日本人の一人として書かなければ、未来永劫、大西郷の謎は解かれることなく、その真価は埋もれてしまうかもしれない、と発憤したのである。
 当時は、全ての職業作家の力量が大西郷の大きさに負けてしまっている以上は、自分が捨て石にならなければと、はたから見れば風車に向かうドンキ・ホーテのように滑稽かもしれないが、切実に思い詰めていた。格好つけて言うならば、「かくすれば、かくなるものと、知りながら、やむにやまれぬ、大和魂」、それに近い。 

 職業作家の力量が大西郷の大きさに負けてしまっているのは、大西郷の史伝をライフ・ワークとした海音寺潮五郎ほどの作家でも同様であり、最近でいえば、大西郷に関しては海音寺の鋭い史眼のフォロワーである井沢元彦氏の『逆説の日本史』の最新刊「西南戦争と大久保暗殺の謎」も同様であった。
 先日、この本を読み終えたばかりだが、同様の読後感であった。
 彼の歴史に対する鋭い推理はいつも楽しみにしてきた。
 特に西郷隆盛の事業をどう推理するかは、この十年来、楽しみにし続けてきたのである。
 しかし、読後感としては、点数をつけるなら50点というところであろうか。

 氏の思想を分類するならリベラルであり、その歴史叙述は小説的である。これは彼が推理小説家から作家としてのキャリアをスタートしているから自然の成り行きなのだが、歴史上の人物の中にはどうしてもそういった視点に収まりきらない人物がいる。大西郷はその典型であろう。 


 彼はリベラルな立場から、作品中、朱子学の毒を言い立ててやまない。
 薬の側面にも少し触れているが、九割方は毒性を強調している。
 多くの人々の支持を受けたイデオロギーである以上は毒にも薬にもなりうるものである。江戸時代初期の朱子学の日本的受容がなければ、長期の秩序の安定もなかったのであって、その学問の深化発展がなければ王政復古維新もなかったことは間違いない。とすれば、日本が西洋列強の世界支配の趨勢にあって、二流国家のままであった可能性は十分ある。そして、それは現代まで続いたであろう。そのことは西洋白人文明の圧倒的優位は今でも続き、有色人種国家の植民地支配はひょっとしたら今でも続いていたかもしれないということだ。

 イデオロギーの功罪はあるにせよ、そういった先人の歴史を、全否定にも、全肯定にも走ることなく、そのまま冷静に受け止めて、バランスよく論ずることが自国の歴史に対する大人な態度と言えると思うがどうだろう。

 彼の維新論は日本的朱子学の影響を毒として批判しようとの感情が強すぎて、これらの学問への理解を妨げる結果となり、『逆説の日本史』を浅はかなものにしている。一般受けしているのはその証拠である。

 ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックス(逆説)の例を挙げるまでもなく、逆説は真理ではない。いくら悧巧に逆説を組み立ても、足の速いアキレスは現実には足の遅い亀に追いつくのである。
 ウサギと亀の競争は亀が勝つが、これは努力の大切さを説く子供向けの教訓話であり、ウサギは油断してサボっていたのだから、足の遅い早いは関係ない。
 こうしてみると、『逆説の日本史』は逆説と教訓話の組み合わせのようにも映ってくる。というのは「西南戦争」の記述の大半は、西郷軍がなぜ負けたのか、の分析に終始しているようなところがあるからだ。

 もちろんそういう分析があってもよい。
 義に殉ずるという江戸時代の学問が陶冶した武士道は、そういう単純な勝ち負けの発想とはまた別のところにあり、そういった情念が志士たちを命がけの行動に駆り立てていったことを忘れてはなるまい。西南戦争を悲劇ととらえる視点が井沢氏にはどうしても欠けているように思われ、それを氏の日本史を薄っぺらい物にしているのが惜しまれるのである。

 ただ、逆説は認識力を高める上で有効である。
 井沢氏に日本の歴史に対する敬愛の感情が強ければ、あるいは探究心が深ければ、次はその分析力を生かして、自らの逆説をたたき台にした『正説の日本史』を書くという選択肢もあり得たはずであるが(あまり売れないだろうが)、氏が次のライフワークを『逆説の世界史』と定めたことは、彼のリベラリズムに胚胎する国際主義的な指向を表わしているように思える。
 それに加えて、彼の歴史観の根底にはどうも、共産主義の一派であるフランクフルト学派の二段階革命論に基づく学説(伝統の否定破壊と次の段階としての革命・革新論)に変に共鳴するところがあるように感じられることがある。


 それはともかく、私にすれば、長年期待し、楽しみにしていた『逆説の日本史』は大西郷の謎を十分に、いや半分程度しか解明しきれなかった。

 ところで、二〇一八年のNHKの大河ドラマが明治維新からちょうど150年ということで、林真理子原作の『西郷どん』に決定したそうだ。
 今のNHKと林真理子氏の組み合わせでは女性受けを狙ったリベラルな作品になるのは必至で、大西郷を描き切る歴史大河ドラマにならないのは確実だ。しかし、国民的に親しまれた英雄を中心に維新150周年が盛り上がること自体はいいことなので、明治維新を描くと視聴率が低迷するという、NHKの大河ドラマのジンクスを堂々打ち破ってもらいたいものだ。

 私もまた、明治維新150周年を目指して、大西郷の史伝の仕事を完結させる所存である。 

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