西郷隆盛

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zoom RSS 名文家としての山陽…頼山陽 @ (「江戸期の学問の大河」 その十三)

<<   作成日時 : 2016/08/24 17:03   >>

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老中を辞した松平定信は、白河藩の藩政に専念し、善政を行って領民に名君として慕われたが、文化九年(一八一二)、家督を長男に譲って、隠居生活に入ってからは、藩政を掌握しつつも、楽翁と称し、文芸を愛し、花鳥風月を楽しみながら悠々自適の生活を行っていた。
 文政十年(一八二七)、六十八歳の時、ある文士の名声を耳にし て、その著作を求めた。
 頼山陽の『日本外史』である。


 頼山陽は芸州広島藩の儒官で、定信とも交流のあった朱子学者・頼春水の長子である。安永九年(一七八〇)、大坂に生まれた。詩文の才に早くから目覚め、軍記物を愛読して歴史に対する関心も深かったという。

 二十一歳の時、脱藩を企てて捕まり、本来なら藩の重罪人として斬られるべきところであったが、その才能を見込まれて、癇狂の発作ということにされて廃嫡の上、蟄居を命じられることで死罪を免れた。山陽はこの謹慎のためにこもった自宅の一室を「仁室」と呼んで、学問に励んだ。文章を自在にして、歴史を修め、徂徠の古文辞を打ち砕きたいとの志を抱いてのことである。将来の主著である『日本外史』の構想はこの「仁室」で生まれたものだ。

 蟄居は三年に及んだが、それが解かれてからも、山陽は『日本外史』の執筆を継続し、二十八歳の頃に大体の成稿を見たという。その後も推敲を重ね、三十二歳の頃には論賛も加筆した。

 山陽は三十歳の時、備後神辺にある菅茶山の塾に塾頭として迎えられたが、歴史に名を残したいとの大志はやみがたく、一年余りでここを出奔して、京に塾を開いた。闇斎・仁斎・徂徠のように名を天下に挙げるには、三都に出て、名儒俊才に交わり、学業を成就しなければ、との切迫した思いがあったからである。

 山陽と交わった名儒の一人、豊後日田「咸宜園」の広瀬淡窓は、彼を次のように評している。

「予が眼中にみる処、この人より才あるはなしと覚ゆ。
子成(山陽)は才を恃みて傲慢なり。貪って礼なし。故に少年の時、その国に容れらるること能はずして出亡せり。海西に遊びし時は、年四十に近かりしも、至る処人に悪まれ、その地を逐はれざるはなし。京師においてもあまねく毀(そし)りを得たる由なり。然れどもその才は実に秀逸なり。総じて漢土には文人にかくの如き人多し。人以て常なりとして怪しまず。
我国の習俗は質朴にして、書を読む者を見ては、必ずこれを責むるに行義を以てす。故にかくの如き人、世に容れらるること能はず。惜しむべし。」

 山陽は文才余って、修徳に欠けるところがあったようだが、その文章は世の認めるところとなっていく。
 彼の文名は高まり、やがて『日本外史』の存在も知られるようになって、これがすでに退隠して楽翁と称していた定信の耳に入ったのである。山陽は楽翁の求めに応じて、『日本外史』を清書してこれを献上した。その際の献呈の辞が、現行書の巻頭に自序として収められている。

 楽翁は『日本外史』を読んで絶賛している。

「おほかたのことをしるすに、もらさじとすればわづらはしく、はぶけばまた要をうしなふ。そのほどをうるもの、評論などするも、わがざえ(才)にもとめず、をのづからの正理に至れば、穏当にしてその中道をうるがゆへに、朕兆(きざし)のめにみえざることまでものがす事なし。これをまたく(全く)そなへしものはこの外史とやいはむとひそかにおもへば、ひそかにしるしつ。後のひとの論はいかがあらむ。」

 楽翁のお墨付きにより、『日本外史』の名声はさらに高まり、当初は写本で流布したが、天保七、八年頃には江戸で刊行されるに至った。以後も幕末にかけ何度か刊行され、読者を感奮させた。
 幕末の混乱した世相の中で、勤皇思想を鼓吹した、とは一般の定評だが、必ずしも反幕思想が述べられていたというわけではない。
 そのことは尊王家でありながらも、決して幕府否定論者ではなかった(むしろ肯定論者である)松平定信が絶賛したことでも明らかであろう。
 彼は『日本外史』を評して、要するに、過ぎたることも及ばざることもなく、正理に至って、中道を得ている、と朱子学者として最大限の賛辞を贈っているのである。

 『日本外史』は武家を叙述の中心に据えた歴史書である。軍記物を素材に武家の盛衰興亡を叙述している。山陽の簡にして要を得た漢文の描写力が紙上に英雄豪傑を躍動させていて、読者を感動させた。徳富蘇峰は『日本外史』の文章を評して、漢文に熟達しないいわゆる和習漢文ではなく、それでいて単なる模倣からも脱した、完全に日本語化された漢文としている。高度な漢文の素養の上に独創性が発揮された、完全に国風化された漢文というのだ。

 また、尾藤正英氏は岩波文庫版『日本外史』解説の中で、その内容について次のように述べている。

「…『日本外史』では、個々の人物の人間像を描写し、その心情の美しさ、行動の正しさや勇ましさを顕彰することに主眼が置かれていて、直接に読者の心情に触れる要素が大きい。人々はそれを読むことを通じて、武士としての生き方を、あるいは日本人としての人生観を、学ぶことができたのである。」

 『日本外史』の構成は源氏・新田氏・足利氏・徳川氏を正記とし、源氏の前記として平氏、新田氏の前記として楠氏、足利氏の後記として武田・上杉両氏、徳川氏の前記として織田氏を立てるという構成をとっている。言わば、「正記」とは司馬遷の『史記』に言うところの「本紀」、「前記」「後記」とは 「世家」「列伝」に当たる部分である。

 『日本外史』の特筆すべき視点は、征夷大将軍とならなかった新田氏を正記に取り上げたことで、これはどうも新田源氏を称していた徳川家を意識したものらしい。とはいえ、これは徳川家の貴種である定信におもねるということではなく、建武の中興における新田氏の勤皇の功績により、その末裔である徳川氏に天下が与えられた、という朱子学的価値観に基づくものらしい。家康の言葉でいえば「天道応報の理」という事であり、これは定信の思想的立場でもある。だからこそ、徳川家は自ら王道を行い続けなければ天下を失いかねない。
 この思想が徳川家という長期政権を腐敗と堕落から救って、長期の太平を辛うじてもたらしたという一面を無視するわけにはいかないだろう。
山陽もまた、泰平を享受した江戸時代の教養人として、この思想を肯定的に受け継いでいたのである。

 その最も重視された勤皇の鑑として特筆されているのが楠正成で、幕末、王道から外れはじめた幕府との対比で、自ら楠正成たらんとした志士たちの志気を奮い立たせたのである。


 さて、定信の賛辞に大いに励まされた山陽は、父春水がなそうとしてなしえなかったわが国の朝廷中心の編年史執筆の志を継いで、これをなそうとした。
 彼はその稿本のあとがきに書いている。

「さきに楽翁公、襄(山陽)が『外史』を索(もと)め、既に観て手筆して数言をその後に題す。大意に曰く『事を叙して繁簡の宜しきに適い、事を論じて偏私に任せず、而して機先に洞中す』と。侍臣ひそかに写して寄示す。余、知己の宜に感じて、また以て自ら勧むることあり。…」

 そして著わしたのが、古今の制度・政体の得失を論じた『通議』二十八編であり、開闢に起こり輓近に至るまでの大事を紀した『国朝政記』(のちの『日本政記』であった。これらは政治評論集であり、為政者に治政に役立つ知識を提供することに主眼が置かれていた。歴史叙述に力点が置かれていた『日本外史』に対し、『国朝政記』に関しては論賛に力が注がれており、定信の思いもよらぬ知遇を得たことが、山陽にこの視点を開かせたものと思われる。
 山陽はまた定信に献呈して批評を乞うつもりだったのだろうが、完成せぬうちに定信はこの世を去った。そして、山陽もまた篤い病に陥った。

 山陽は次のように書いている。
 

「…いわゆる偏私に任せず、機先に洞中する者において、未だよく公の言に負かざるか否かを知らず。而して、公逝いてすでに四年なり。襄もいままた篤疾を獲て殆ど起たず。今昔を俯仰し、巻を撫して慨然たり。」

 天保三年(一八三二)六月の喀血後、彼の余生は『国朝政記』改め『日本政記』の完成に捧げられた。門人たちの尽力もあって、山陽の死去当日に脱稿した。いやむしろ、死去当日を以て脱稿とした、と言った方がいいだろう。というのは、山陽が健在ならさらに内容を磨き上げたであろうことは想像に難くないからである。


 これら山陽の代表的二著作は後世に大きな影響を及ぼした。
 維新回天に大きく貢献するのみならず、彼の国体観から導かれた統帥権の問題は明治の軍事的成功に大きく貢献し、明治憲法に規定された統帥権の前提知識となっていくし、これを忘れた昭和の指導者たちの「統帥権干犯」問題という憲法運用上の混乱を引き起こすもとになる。

 この問題は深刻な内憂外患に直面している現代日本にとっての課題でもある。
 現在の憲法には国軍の規定がない。その空白を令外官である自衛隊が埋めてきたのだが、統帥権の問題はいわば宙に浮いてしまっている。最近の報道で、中国政府により尖閣諸島周辺に大量に動員された漁船の中に、海上民兵、いわばゲリラ兵(かつてのシナではこれを便衣兵といった)が紛れ込んで、これを指揮していたことが明らかになったばかりだが、わが国土が中国により奪われようとしている今日、戦前より問題はさらに深刻化しているといっていいだろう。


 近日アメリカのバイデン副大統領がヒラリー・クリントンの応援演説の中で、日本や韓国の核武装を容認する発言をしているドナルド・トランプに対する批判の文脈で、中国におもねる意図からか、「我々が(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」とあからさまに真実を述べたばかりだが、改憲の必要に迫られているわが国では、この統帥の問題を考えるうえで明治憲法は十分念入りに参照されなければならないし、その統帥権規定の前提をなした山陽の、定信をして正理にして中庸を得ていると評さしめた国体観はもう一度見直される必要があるのである。




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