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zoom RSS 藤田東湖…後期水戸学 B (「江戸期の学問の大河」 その十二)

<<   作成日時 : 2016/08/20 16:33   >>

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 藤田東湖は幕末、水戸藩公の懐刀として活躍し、戸田篷軒と並んで水戸の両田と称された。幕末の水戸藩を代表する人物の一人である。
 東湖は幽谷の次男であるが、長男が早世したため、嗣子として育てられ、この偉大な父からは大きな学問的影響を受けた。文政七年、イギリスの捕鯨船員が大津浜に上陸した際には、父からイギリス兵を斬るよう密命を受け、死を覚悟したことがあった。

 彼の詩「文天祥の正気歌に和す」、いわゆる「正気歌」は幕末の志士に好んで歌われた。ちなみに文天祥は南宋の忠臣として朱子学者の間では有名な人物である。

 天地正大の氣、粹然(すいぜん)として神州に鍾(あつま)る。
秀でては、不二嶽(ふじのがく;富士山)となり、巍巍(ぎぎ)として千秋に聳え、
注ぎては、大瀛(だいえい)の水となり、洋洋として八洲を環(めぐ)る。
発しては、萬朶(まんだ)の櫻(さくら)となり、衆芳(しゅうほう)與(とも)に儔(たぐい)ひし難し。
凝(こ)りては、百錬の鐵(てつ)となり、鋭利なること鍪(ぼう)を断つべし。
盡臣(じんしん)皆(みな)熊羆(ゆうひ)、武夫、盡(ことごと)く好仇。
~州、孰(たれ)か君臨す。萬古、天皇を仰ぐ。
皇風は六合(りくがふ)に洽(あまね)く、明徳は大陽にr(ひと)し。
世に汚髢ウくんばあらず。正氣、時に光を放つ。…

 
 長いので以下は略すが、その国粋主義的内容は大東亜戦争敗戦までの愛国的人士の愛唱歌として、広く普及したものである。


 さて、会沢正志斎の『新論』執筆から数年後の文政十二年(一八二九)、第九代水戸藩主に就いたのが、後の烈公こと徳川斉昭。最後の将軍、徳川慶喜の実父である。
 斉昭は会沢や藤田東湖ら改革派の支持を受けて、天保の改革を進めたが、その四大改革の一つが彼の「神儒一致、文武合併」の主張に基づく藩校建設であった。その結実が天保十二年(一八四一)仮開館の弘道館であるが、その三年余り前に記された建学趣旨と綱領が「弘道館記」および「弘道館述義」である。「弘道」の名が『論語』の一節から取られていることからもわかるように、この学府においても最高の権威は『論語』を中心とする四書にあった。

 その前年、東湖は「弘道館記」の草稿について、斉昭から諮問を受け、同門の先輩である会沢に相談し、起草を依頼したが断られたため、やむを得ず自ら筆を執ることになったのだという。その後、紆余曲折を得て、『弘道館記』は天保九年三月に公表され、領内の真弓山から切り出された寒水石(大理石)に斉昭自書の文章で刻み込まれた。
 東湖は、水戸の学術の眼目というばかりではなく、天下に推し及ぼして、神州の一大文字にして、この国を西欧の侵略から守りたいという、この文章に込めた思いを会沢への手紙で告白している。

 天保十二年の開館を仮開館というのは、学制が整備されていなかったことにもよるが、建学の精神である「神儒一致」に則って、館内における孔子廟の造営、そして鹿島神宮への孔子神位の安置と孔子廟への分祀遷座を待たなければならなかったからである。
 本開館はこれらが果たされた安政四年(一八五七)のことである。

 鹿島神宮の祭神は出雲の国譲りの神話に出てくる武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ;『日本書紀』による表記。『古事記』では建御雷神)で、社伝によると、創建は初代神武天皇の御代にまで遡るという。

 東征中、熊野で苦難に陥った神武天皇は武甕槌大神から授けられた「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の霊威によって荒ぶる神を平らげた。これに感謝した神武天皇が大神をこの地に祭ったというが、これは後世の附会らしい。
 この伝承は『古事記』『日本書紀』にはなく、御祭神を武甕槌大神とする記述は大同二年(八〇七)成立の『古語拾遺』が初見という。

 養老五年(七二一)成立の『常陸国風土記』では、この神を「高天の原より降り来りし大神、名を香島天の大神と称す」と伝えていて、天津神ではあるが、武甕槌大神とは記していないのである。

 しかし、それ以降はこの神を氏神とした藤原氏を中心に篤く崇敬され、武家の時代になっても武神として諸家の崇敬を集めた。武家政治の創始者・源頼朝は多くの社領を寄進したが、彼を手本にした徳川家康もまたこの神を篤く信仰し、慶長十年(一六〇五)には本殿の造営を行い、次代将軍秀忠も元和五年(一六一九)さらに大掛かりに社殿一式を造営した。その際、家康が造営した社殿は摂社として遷され(現在の奥の宮)、そこに大神の荒御魂が祭られた。

 さらに寛永十一年(一六三四)には、家康の十一男徳川頼房によって楼門の造営がなされた。頼房は水戸徳川家の祖である。ここにも水戸藩の学問が、この国の成り立ちを意識して、他藩に比して特異なものにならざるを得なかった要因が隠されていると言えるだろう。

 『弘道館記』にもこれらに関する記述はあり、それによると、藩祖頼房は日本武尊の人となりを慕い、神道を尊んでいたといい、また、武甕槌大神を祀るのは、この神が神武天皇の東征事業を助けたことで、領内の鹿島神宮に鎮座しており、その由来を尋ね、その恩に報いて、道の根源を民に知らしめるためである、との趣旨が述べられている。
 さらに、孔子廟については、古の聖人の道が孔子に集約されることから、その教えが公明正大であることを人に知らしめるためである、との趣旨が説かれている。

 そもそも館名の由来となった「弘道」すなわち「人、よく道を弘む」の「道」とは何か。

 『弘道館記』は意訳すると次のように説明している。

 道とは天地間に常に備わっている大道であり、人たるもの一時も離れて生きていく事はできない。古に高天原の神々が窮極の標準となるものを立て、子孫に継承させることで、天地が安定し、万物が生育してきた。この道によって、宝祚(天皇の位)はますます無窮、国体は尊厳を加え、民は安心して暮らし、周辺の野蛮な異民族は服従してきた。
 しかも歴代の天皇はこれで満足なさらずに人に学んで善をなすことを楽しみとしてこられたのである。特に古のシナの聖人の治教を取り入れたことは世を治める上で大変効果があった。このことによって、この道はいよいよ公明正大なものとなった。
 しかし、中世以降、異端邪説が世を蔽い、俗儒や曲学の者が日本を貶め、外国を賛美することで、朝廷は衰微し、世は次々と乱れ、大道は見失われた。
 ところがわれらが東照宮、すなわち神である家康が文武を以て乱世を治め、正道に反すことで、太平の基を開いた。わが水戸藩にあっては、家祖である威公こと頼房公が神道を尊び、次代義公こと光圀公が父の志を継いで、さらに儒教を尊び、大義名分を明らかにして、歴代藩主はこれを継いで今日に至っている。だから臣子としてはこの道を推し弘め、先人の徳を発揚していかなければならない。そのために弘道館は創設されたのだ。

 以上のことが、難しい古典の詞に基づいて表現されている。
 それは、現代人の目には、記紀に記されたわが国の神話と四書の価値規範が融合した独特のものとなっていて、大変読みづらい。これは当時の一般人にとっても同様で、斉昭の命令で、一般人に向けての注釈書が二種作られている。一つは、『新論』の著者で、弘道館の初代総教を立原翠軒門下の青木延于と共に務めることになる会沢正志斎が問答体で表した『退食間話』、もう一つが『弘道館記』の起草者である藤田東湖の『弘道館記述義』である。
 要を得た人選というべきであろう。
 

 彼らはその中で、ともに徂徠や本居宣長の主張の核心部分を批判的に取り入れ、折衷させている。特に会沢は前著で、荻生徂徠や新井白石を名指しで批判しているし、国学者に対しても、名指しでこそないものの、宣長の主張を意識してのものと思われる批判を行っている。

 会沢は『弘道館記』にある「俗儒曲学、此れを舎(捨)てて彼に従う」の解説の中で、概ね次のように述べている。

 戦国の世には書物を読む者は五山の僧などに限られていて、彼らは国体というものを知らないものだから、漢土や天竺などのみ貴い国と思っても怪しむに足りないが、近世においては、徂徠学の徒のように、唐土を中華・中国と称し、自ら卑下して東夷・日東と言ったり、新井白石のように、関東を王と称し、天皇を国失って他国に寄寓する君主のように申すのも、この類である。
 彼らの学問が世に益あるもの多いのも事実であるが、一方で、最近は皇国学と称して、神州の貴いことを称揚し、その卓識は大いに人心世道上に益するところが多いが、その多くは治教の大体を知らず、自己の偏見に固執して、皇室がこれを採用して天下の統治に活用して効果大であった儒教の教えを排斥するところ行き過ぎで有害ですらある。

 会沢はこれらのみならず、続けて仏教、老荘、蘭学など、当時行われていたあらゆる学問を視野に入れて、その長短、功罪を論じ、神聖の大道を明らかにして、これに本づき、それぞれの長所を生かして、人材を育成し、国家の用をなせ、と説くのである。こうしてみると、水戸学とはわれわれの先入観と違って、偏狭的で狂信的というわけではなく、むしろ実に懐の深い学問を目指していたことがわかる。弘道館の学科を見ても、儒学や歴史の他に、天文学・数学・地理や和歌などもあって、会沢の注釈を裏付けている。

 藤田東湖もまた『弘道館記述義』において、特に「古学者流」と呼んで、国学者の説を、功は大きいが、私智を以て神代を推し測る過ちを犯していると批判している。われわれ神州の民は、皇統や神器が現在にまで伝わっている以上その淵源を尋ねざるを得ないが、上古のことは、年代悠遠にして、合理的に、統一的に解釈することは困難である。これは荻生徂徠の学説に対する富永仲基の批判、本居宣長との論争で上田秋成が吐き出した批判の言葉に共通する見識だ。

 では、水戸学ではこの国体の根源に関わる難しい問題についてどのように対処しているのか。
 東湖が述べるには、義公が「紀」「伝」を著すに際して、神代は大要を巻頭に掲げて皇統の淵源を明らかにするにとどめ、神武天皇から記述を始めたのは、日本書紀を編纂した舎人親王がその当時すでにそのままでは理解不能となっていた神代の伝承を、「一書に曰く」として併記することでそのまま後世に伝えようとしたことに倣ったもので、かの牽強付会の弊害を避けたのである。
 その代り、神代の事実は、神祇・氏族・職官・兵・刑などの志類を作成することによって、その中に自ずからあらわれるようにしてある、と。
 この志類が徂徠学に基づく制度史的側面を持つことはすでに触れたところである。

 このように水戸学はその根本において、江戸時代を通じて儒学を中心に発展した学問の伝統を土台にした折衷学なのである。
 ここに言う「折衷(折中)」とは、「中道」という言葉と同様に、現代的な価値相対主義(ニーチェが言うところのニヒリズム)に基づいて、その真ん中をとるという意味ではなく、孔子が至徳と言うところの「中庸」「中道」に基づいて、長所短所を取捨選択して取り入れる、という意味である。すなわち「中道」とは「道」に「中(あた)」っている、ということだ。相対主義の向こう、「道」という概念の向こうに絶対的価値が見据えられている。
 その精神は開国後の国是である「五箇条の御誓文」の「天地の公道に基づくべし」「智識を世界に求め」という文言にこだますることになる。

  後期水戸学は、国家的危機意識が旺盛で、その危機に直面して、国体を最大限に活用しようとの意識が強かった。これから迎える万国対峙の時代に、日本という古くて新しい国家が自覚的に力強く、かつ柔軟に生き抜いていくためには、重心はより低く意識されていなければならなかった。皇室の問題、神話の問題が大問題となった所以はそこにある。

 そういった後期水戸学の土壌から幕末を担う人材が輩出したのは偶然ではない。
 尊皇攘夷の急先鋒となった水戸藩主徳川斉昭、水戸学の強い影響を受けた長州の志士・吉田松陰や木戸孝允、若い日に藤田東湖と交わり強い感化を受けた薩摩の西郷隆盛。そして大政奉還を行って徳川の天下に終止符を打った「最後の将軍」こと徳川慶喜。
 皆、水戸学の影響抜きに語ることができない人物たちである。

そして、彼らが創り上げた明治日本は自らの力で憲法を制定することになるが、その中心となった伊藤博文や井上毅らが、わが国体を基礎に、西洋各国の憲法を研究し、長所を取り入れて制定したものであった。

 では、その国体観を彼らに提供したテキストは何であったかと言えば、リーダーであった伊藤博文は頼山陽の『日本政記』であったが、グループの一人であった金子堅太郎は後の講演「帝国憲法制定の拐~」で次の書籍を挙げている。筆頭は『大日本史』で随一の内容であるが、いかんせん大部であり、簡便なものとして、北畠親房『神皇正統記』、『弘道館記』及び『弘道館述義』、会沢正志斎『新論』が挙げられている。主として水戸学だが、特に『弘道館記』の次の一文がわが国体を簡潔に表している、と金子は言う。


 恭しく惟(おもん)みるに、上古、神聖極を立て、統を垂れたまいて、天地位し、万物育す。その六合に照臨し、宇内を統御したまいし所以のもの、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。、宝祚、之を以て無窮、国体、これを以て尊厳、蒼生、これを以て安寧、蛮夷戎狄、之を以て率服す。


 伊藤博文の国体観をなした『日本政記』は上古以来保元平治の乱までは『大日本史』をテキストにしていて、大雑把に言えば、水戸学の土台の上に大日本帝国憲法は築かれたといってよい。
 やはり水戸学は、われわれ後世の日本人にとって、偉大な遺産である。

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