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zoom RSS 藤田幽谷…後期水戸学 @(「江戸期の学問の大河」 その十二)

<<   作成日時 : 2016/08/11 16:35   >>

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 定信が幕政改革に従事した頃の水戸学の質的変化について話を移していきたい。

 光圀の死後、正徳五年(一七一五)に「本紀」七三巻・「列伝」一七〇巻が脱稿し、光圀以来の彰考館員で、その死後中心的役割を担ってきた、「格さん」のモデルとされる安積澹泊が元文二年(一七三七)に死去すると、修史事業は休止状態に陥った。しかし、第六代藩主治保(はるもり)が寛政十一年(一七九九)の光圀の百回忌に向けて、彰考館総裁に立原翠軒という学者を登用し、その門下に藤田幽谷という新星が誕生することによって水戸学は活性化した。

 この頃から彰考館員は水戸出身者で占められるようになり、それまでの藩政に無関心な他国出身者による非政治的な純学問的議論から、政治性を帯びた活動へと移行していくことになる。館員は、その価値規範である儒学の実践的性質もあって、藩政改革にも関心が高かったのである。
 それが長い海岸線を持つ水戸藩では、異国船の頻繁な到来とともに、海防意識を高めるきっかけとなった。というのは、対外的危機意識を高めることは同時に藩政改革の必要性を訴える上で好都合だったからである。
 もちろん彼らの対外的危機意識は本物であったから、ペリーの黒船来航に際して、水戸藩はいち早く国防意識に目覚め、尊皇攘夷運動の総本山のようになったのである。
 そのさきがけと言える存在が藤田幽谷であった。

 幽谷は古着商家に生まれたが、新井白石を崇拝していた立原翠軒に入門し儒学を学んだ。翠軒は徂徠学も学んだ時流に敏感な学者であるが、白石・徂徠ともに、幕府統治の正統性の根拠を天命思想に置いていた人物である。すなわち家康がその徳により天命を受けたがゆえに、徳川家は天下を与えられ、統治している、だから歴代将軍は徳を修めて天下を治めなければならない、とする立場である。それは徳川家に仕える儒者の存在根拠でもあり、翠軒もまた、そういった人物であったらしい。『大日本史』「本紀」「列伝」を完成させ、光圀の百回忌にこれを献じた彼の功績は大きい。

 幽谷はこの翠軒門下で頭角を現し、弱冠十八歳にして、人材を求めていた時の老中松平定信の求めに応じて一文を草し、これを提出した。有名な「正名論」がそれであるが、尊王賤覇、すなわち皇室を王道として尊び、幕府を覇道として賤しむ思想が述べられていたため、採用されなかったとされる。
 しかし、「正名論」の成立は寛政三年十月十四日であり、定信が「異学の禁」に象徴される朱子学的規範に基づく幕政改革「寛政の改革」に鋭意推し進めつつあったことが要因であったと思われる。すでに述べたように、定信は朱子学的文治政治の担い手であり、思想的には尊王賤覇である。幕府が王道を用いている限りにおいて、その統治の根拠まで否定されることはなかった。

 『大日本史』「本紀」「列伝」に代表される前期水戸学は朱子学的大義名分論で貫かれており、寛政以後も正学であったが、後期水戸学の思想内容は明らかに異学であり、いわば「陽正陰異」の様相を呈した。
 問題は「異学」すなわち異端の学問との烙印を押された異学の側は、自らの学問を正学と信じ、逆に「正学」の方を「異学」と見ているのであり、そのせめぎ合い、つばぜり合いが、対外的危機の高まりとあいまって、それまでの緩やかな滔々とした流れとは打って変わって、奔流となり、幕末の歴史を激しく動かしていくのである。

 寛政二年に発布された異学禁制の当然の帰結として、藤田幽谷の「正名論」(寛政三年成稿)は採用されなかった。
 「正名」は『論語』の一節に由来し、幽谷自身『論語』を学ぶべき古典として最重視していた。このあたり仁斎の主張を髣髴させるが、幽谷はこれに前後して、師翠軒(定信の同志の一人である)の影響を受けて、田中江南という人物から徂徠学を学んだ。
 水戸学の真面目は朱子学の大義名分論に基づく「本紀」と「列伝」にあることはいうまでもないが、後期水戸学において制度論的な「十志」(神祇・氏族・職官・国郡・食貨・礼楽・兵・刑法・陰陽・仏事)と「五表」(臣連二造・公卿・国郡司・蔵人検非違使・将軍僚属)の完成に力が入れられたのは、彰考館における政治的関心の高まりとともに、徂徠学の影響もあったのである。

 幽谷はやがて江戸の彰考館に勤務するようになったが、光圀の遺志継承の立場により、政治的実践を重んずるところから師翠軒と対立するようになる。
 幽谷は藩政への不満から藩主治保への封事(密封した奏聞書)の提出に及んだ。この中にも宋学に対する批判が述べられていて、功利の重要性、術策の必要性を説くなど、徂徠の影響が垣間見られるのだが、内容そのものは『論語』を価値機軸に据えた 藩政改革に関する意見書である。またロシアの脅威に触れ、富国強兵も説かれている。
 この封事は、史官の分限を越えた藩政に関するものであり、幽谷も処罰を覚悟した上での越権行為であったが、藩主の命令と偽って近臣に取り次いでもらった経緯が、治保の怒りに触れ、水戸に召還され、謹慎を命じられた。翠軒もまた、彼の封事提出の際の態度を問題とし、この才能あふれる弟子を破門した。

 三年の謹慎を経て、両者は和解し、幽谷は再び彰考館に出仕するようになったが、翠軒が彰考館の廃止を唱え、史料蒐集が困難な「志」「表」作成を中止しようとしたので、再び対立、絶交、次いで両派に分かれての抗争状態となった。しかし、藩主治保が光圀の遺志継承の立場から、今度は幽谷の意見を採用したため、彰考館は幽谷一派で占められ、彼自身、後に総裁に抜擢されることになったのである。
 しばらくして郡奉行も兼任するよう藩命を受け、学派が政治性を帯びる端緒となった。一方、追い落とされた格好の翠軒は徳川家康の事跡の編纂を第七代藩主治紀に命じられ、これに嬉々として取り組んだ。
 この対立が後の尊皇派と佐幕派の党争の淵源となるのであるがそれは後の話である。 

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