西郷隆盛

アクセスカウンタ

zoom RSS 定信の出処進退…松平定信の異端禁制 C (「江戸期の学問の大河」 その十一)

<<   作成日時 : 2016/08/05 17:09   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 これまで見てきたように、尊号事件は、すでに家康以来二百年近い徳川家の学問的伝統を背景に持つ定信の徹底した朱子学的リゴリズムが、儒学を大らかに受容してきた、徳川家よりはるかに長い歴史と伝統を持つ朝廷を咎めた事件であった。

 一方で目を転じてみると、幕府自身を粛正する作用を持つ事件でもあった。
 将軍は当時十八歳で、三卿の一つ、一橋家から本家を継いだ人物であった。その実父一橋治済は吉宗の孫で、定信とはいわば従兄弟関係になるが、彼の人物を見込んで、老中主席就任に尽力した人物の一人であった。

 この治済がやはり将軍の実父として特別待遇を得ていて、大御所として西丸に入る野心を持っていたとする説があり、これが事実であったとすれば、定信の尊号宣下問題への対処は、返す刀で彼の野心をも斬ったことになる。
 治済はこの宣下問題に関しても、定信から相談を受けていて、常に賛同してきた経緯から、野心を露にすることはできなかった。もしそうだとすれば、定信が常に幕閣のみならず御三家にも相談し、幕府中枢の意見をまとめながら事を進めたその政治的手法が、付け入る隙を与えなかったことになる。

 定信は寛政五年三月七日に、二卿に対する処分を宣告した後、十三日に異国船が洋中に現われたとのことで、関東地方の沿岸巡視を命じられ、これを果たした後、尊号宣下問題の処分がおおむね片付いた七月二十三日に、将軍補佐役及び老中職を免ぜられ、左近衛権少将に任じ、溜間詰(たまりのまづめ)を命ぜられたのみならず、特例として代々溜間詰を許される家格を与えられた。

 彼の朱子学的な哲学は簡単に要約することが難しい。
 彼は老中に就任して一年経つ頃からしきりに辞職を願ったが、これは、彼が政治というものをよく理解していて、このような、よく言えば規律正しく清廉、悪く言えば堅苦しい復古政治が、当時の風潮の中で長く支持されるはずなく、成功まで持って行こうとすれば最低でも十年は懸かる、ならば中興の大きな道筋さえつけて置けばよい、と考えていたからである。
 彼は自分ひとりの力で中興の大事が成るなどとは思っていなかった。

 しかし、辞職が認められない以上、「十年もつとめて、その成功半ばにも至るころは、また自ずから天下の綱紀も立つべし」と決意を新たにした。これが寛政二年の話で、この決意のもと、彼は旗本に「正学」を勧めて「異学」を禁じ、次いで尊号宣下の問題に鋭意取り組んだのである。この問題も、二卿の処分が済んで一段落すると、将軍や同僚の信任をますます得て、権勢が自分ひとりに集中していく現状を、一同共和の政治を理想とする立場から憂慮して、そのことを訴えた。

 彼は免職の経緯を後に次のように語っている。

「…功名の下には久しく居るべからず。いわんや振主の勢もまた恐るべし。天意もまた窺い測るべからず。さればとて今更身を引かんも独善にちかし。勢権を挫折するにあり、ということを殊に詳しく書きつけて加遠州(加納久周)まで進じたりしが、計らず(将軍の)御覧に入り、精忠ことに御感深く、猶御考在らせらるべしとて、(免職等の)御沙汰もありしとぞ。」

将軍は彼の深謀遠慮を汲んで免職し、特別待遇を与えたのである。

彼は後にこうも言っている。

「君子は機を見て立ち、日の終るを待たずといえり。…進みて忠にあたり、退きて忠にあたる事のあれば、進退行蔵はよく思いわきまうべし。栄利に迷えば、その当否を知らず、ただ機を見るという事、克己の上ならではいかで見えん。」(『退閑雑記』)

 彼の政治家としての姿勢はここに尽くされていると言えるだろう。
 出処進退の在り方は朱子学における重要なテーマの一つである。
 朱子学が聖典の一つに数え上げた『孟子』の中で、賢者孟子は聖人孔子の時宜を得た出処進退の在り方を理想としていた。
 将軍が定信の辞職願を受け入れた事情は別にあったかもしれないが、定信が辞職を願った理由は彼の言葉に表れているように、朱子学に基づく理由にあったのである。
 彼の政治は終始一貫した。


 では、定信が克己の上で守ろうとした、あるいは立て直そうとした「御国体」とは一体どのようなものであったのだろうか。
 その基本に東照宮家康が定めた諸法度があることはすでに触れた。
さらに幕府の二卿に対する処罰の理由を朝廷に示した文書には、彼らを朝廷に知らせることなく処罰することに関して、概ね、次のような根拠が示されている。

 武家にしても公家にしても皆王臣である。ならば王臣の扱いについて差別があっては将軍としての職掌を軽んずることになり、公卿だからといって武家同様、叡聞を経ず幕府において直接これを処罰することは、朝廷を崇敬するが故にである。

 ここでは触れていないが、定信は将軍補佐に任命された天明八年、若き家斉に将軍の心得として「六十余州は禁廷より御預り遊ばれ候御事」と説いているから、「王」とは朝廷を指していることは明らかであり、その「王」から預かった天下を、道理、公議に基づいて統治するのは将軍の職掌であり、これを公正に執り行うのは潜在的主権者としての「王」たる皇室を尊敬する事の現われである、となるのである。


定信という人物は徳川の政治理念を蒸留したもので、これが幕政に再注入されることで一種のカンフル剤の役割を果たしたといっていいだろう。瓦解の危機に瀕していた幕府はまだこのカンフル剤に耐える体力を持っていた。
 だが、奇しくも太田南畝の狂歌「白川の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼こひしき」に表されているように、幕府の衰勢や天下の時勢に抗う改革であった。出版を統制し、『海国兵談』を自費出版して、世に警鐘を鳴らした林子平を処士横議の禁制によって処罰するなどもその例の一つに数えられるだろう。先例に基づく秩序の安定を第一義とする復古政治は、来る黒船来航の時代に向けて直接対処するものではなかった。その点では、むしろ田沼政治の方が時代を先取りしていたといえる。
 しかし、その徹底性が生んだものにも目をやるべきであろう。すなわち権力の足場、価値規範、社会秩序の基本を固めておかなければ、次の大きな発展も、困難に一丸となって対処することも期待できない。


 すでに引用したように、ニーチェが「ルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ」と批判したように、朱子学を根底から批判した古義学や徂徠学の流行は、朱子学を却って甦らせた。定信の登場、そして異学の禁制によって。
 「異端を攻めるは害有るのみ」とはよく言ったものだ。
 カソリックとプロテスタントの対立は欧州に甚大な被害をもたらした。その凄まじさに比べれば、朱子学と「異学」の批判対立は緩やかで、むしろ朱子学を看板にした折衷学の様相を呈した。総体としては「文武、文武」とうるさく言って、学問全体を再活性化させた。
 定信が寛政四年、学問所において始めた学問吟味は幕末まで継続し、正学振興に功があったし、禁制は、諸藩の藩校がこれに倣ったことで、広くいきわたったのである。

 一方、 彼によって異学の地位に貶められた学問のほうでも、これに反発し、あるいは一部取り入れられることで融合し、しぶとく水脈を保つことになった。
例えば、湯島聖堂から分離設立された昌平坂学問所の儒官となった佐藤一斎は、表向きは朱子学を講じたが、内輪では異学である王陽明を講じて、世間では「陽朱陰王」と評された。幕末の討幕勢力の糾合に重要な役割を果たした西郷隆盛は、薩摩藩校造士館が採用していた崎門学、藤田東湖を通じて影響を受けた水戸学のみならず、佐藤一斎の影響を強く受けている。

 徳川家にとって身内である水戸の藩学は、これから触れるように、いよいよ「異端」の学への傾斜を深めていくことになり、看板である「本紀」「列伝」は朱子学的大義名分論であるが、後期の「志」「表」は古義学・古文辞学の見識が取り入れられ、国学の見識も批判的に取り入れられていくのである。
 現に幕末の長州の朱子学者山縣太華は水戸学を評して「世に皇国学などとも称し、元来国学者流より出でて、儒学を混合したることと見えたり」としている。つまり水戸学は異学というわけだ。
 しかし、幕府がこれらを問題視した形跡はないのである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
定信の出処進退…松平定信の異端禁制 C (「江戸期の学問の大河」 その十一) 西郷隆盛/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる