西郷隆盛

アクセスカウンタ

zoom RSS 高山彦九郎の場合…松平定信の異端禁制 B  (「江戸期の学問の大河」 その十一)

<<   作成日時 : 2016/08/01 16:33   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

尊号事件の処分が終わった頃、一人の草莽の尊王家が自害を遂げている。
 林子平、蒲生君平と並んで、寛政三奇士と称された高山彦九郎である。

 彦九郎は上野国新田郡細谷村の郷士の家に生まれた。新田十六騎の一人高山重栄の末裔と伝えられている。 
 十三歳の時に『太平記』を読んで感銘を受け、長じては勤皇家として諸国を遊歴した。

 天明の頃、京都において菅家高辻胤長を中心に学校建設の議が起こり、彦九郎もまたこの運動に積極的に関わった。朝廷の周旋は済み、あとは幕府の協力を仰ぐばかりとなったが、当時は田沼政治の全盛期であり、計画は挫折せざるを得なかった。
 彦九郎が学校設立にどのような思いを抱いていたかは定かではないが、朝廷復古の基となるような学問を望んでいたであろう。思想的立場としては竹内式部に近かったと思われる。

 彦九郎と同じように計画に加わった大坂懐徳堂の朱子学者中井竹山は、士風を害するものとして、徂徠学の辛辣な批判者であったが、建議を行うにあたっては、宝暦事件を例に挙げて、崎門学を大禁とすることを主張している。彼は朱子学の一派としての崎門学の長所を認めつつも、公家子弟の学問としては不適切であるとして、その採用には断固として反対したのである。

 学校建設計画の頓挫は竹山や彦九郎を失望させたが、天明八年に清廉な学者政治家・松平定信が老中主席に抜擢されると、世の儒者の意見に盛んに耳を傾けようとの態度を示したため、彼らの新政への期待はがぜん高まった。 
 天明八年、定信が上洛し、そのあと視察のため大坂を訪れた際、三日という短い滞在期間にもかかわらず、竹山と四時間にわたる会見を行った。その中で、定信に異学に対する彼の見解を述べ、禁制の実施に間接的影響を及ぼした可能性がある。すくなくとも竹山がのちに定信の異学禁制に賛意を表したのは確かだ。

 一方で、学校建設計画の挫折後、彦九郎は帰郷していたが、天明七年、祖母が他界したため、その墓の傍らに庵を作って、三年の喪に服していた。
 彦九郎と交際があった儒者菅茶山が『筆のすさび』に記すところによると、この間に次のようなことがあった。
 彼の郷の領主は旗本であったが、彦九郎が百姓身分にありながら、家業を勤めず、常日頃、長い大小を携えて、本ばかり読んでいるのは不審であるということで捕らえた。彼は軟禁され、しばらくして、大府の一有司(幕府の官吏)に呼び出されて尋問を受けたことがあった。諸国遊歴の理由を尋ねられた彦九郎は、乱世の武者修行のようなもので、今は太平の御代であるから、諸国に名のある人を訪ねて、忠孝に関するよき意見を聞こうと思ってのことです、と答えた。
 尋問者は、ならばこの書を講釈してみせよ、と一巻の『論語』を差し出した。彦九郎が堂々講釈すると、数日後また講釈を命じられた。今度は筆記者が隣室にいて記録されたというから、幕府の思想調査であったのだろう。
 その数日後、再び呼び出された彦九郎は、名字帯刀、諸国遊歴を許されたという。

 寛政元年、幕府は彼を江戸に召還した。表向きは彼の祖母への孝道を称するためであったが、異学を警戒していた幕閣に要注意人物として目をつけられていたからであったらしい。彦九郎が、孝道の一方で、実兄とは不和であることを誣告するものがあって、人物を調査する意図もあったらしい。結局処罰を受けることはなかったが、特に称されるということもなく、同志は幕府の処置に対し不満であったが、彦九郎自身は泰然としていたようだ。
 江戸滞在中、彼は頼春水などの儒者と親交を篤くしたが、定信が儒者を召して、遠慮なく意見を申すように言ったと伝え聞いて、新政に期待をかけたのは竹山と同じであった。

 彦九郎は、朝廷の衰微を嘆いて、次のような歌を詠んだことがあった。

比叡の山 登りて見れば 憐れなり 手のひら程の 大宮所


 「大宮所」とは禁裏御所のことを指すが、ここも天明七年の大火で灰燼に帰した。
 定信の上洛をこれに善処するためであったが、彼は幕政、ひいては天下の政道の「御勝手、御復古の基」となすべく、新政の第一著として鋭意取り組んだのである。それは同時に朝廷の復古も意味し、幕府は財政難にありながら、禁裏御所の規模を「手のひら程」よりは拡大するとともに、古礼に則して復古した点も少なくなかったのである。

 そんな中、寛政三年の春ごろ、彦九郎は鴨川辺を歩いていて、子供たちが捕まえた亀をいじめて遊んでいるところに遭遇し、これを助けた。
 日本の神話に由来する昔話『浦島太郎』を連想する話だが、実話である。
 彦九郎は子供たちから亀を鳥目三百文で買い取ったが、よく見るとこの亀は、甲羅に文様があり、尾に毛が生えている。いわゆる緑毛亀で、古書を調べてみると「文治の兆し」とあった。儒者は奇瑞を表す生き物を重んずる。鳳凰しかり、麒麟しかり。いずれも天意の表れとされている。
 彦九郎は早速、光格天皇の師範で、儒を家業とする清原宣條(のぶえだ)に献上した。清原は天下泰平の真瑞として、天覧に備えた。天皇は喜び、破格のことながら、彦九郎は夜中密かに、「龍宮城」ならぬ宮城に召され、龍顔を拝する栄に浴することを得たのである。

 彦九郎はその喜びを詠んだ。

我を我と 知(しろ)し召すかや すべらぎの 玉の御聲の かゝる嬉さ

 
 いよいよ王政復古の時機到来を確信した彦九郎は、鹿児島を目的地とする九州地方遊歴の旅に出た。皇運隆興の福音を知らせてまわるつもりだったのだろう。
 遊歴地が九州地方だったのは『太平記』の影響も大きかったと思われる。

 彦九郎は寛政四年三月から五月下旬まで鹿児島に滞在した。この地では国学者の白尾国柱や藩校造士館教授山本正誼など諸学士と交わるとともに、天孫降臨の地と伝えられる高千穂峰のほか、桜島や開聞岳に登っている。
 その後も九州遊歴を続けたが、翌五年六月二十七日久留米において自害したのである。突然の出来事であった。

 彼の自害の理由は明確ではないが、時期を考慮すれば、例の尊号一件で、彼が知遇を得ていた王政復古主義者中山愛親が江戸に召還され、処罰を受けた時期であり、これを知ったことが原因であったと推察される。

 彦九郎は故あって久留米から上京の途に就いたが、突然戻ってきた。その様子が尋常ではなかった。
 彦九郎は「予、狂気を発せり」と言って、歯噛みしながら、遊説中の筆記や日記類を水に浸し、揉み破っていったという。
 そして、旅館の主人の説得によって一時は鎮静したが、ちょっと目を離したすきに切腹してしまった。

 彦九郎は苦悶の表情を浮かべながら次のように遺言したという。

「余が日頃、忠と思い、義と思いしこと、皆不義不忠のこととなれり。今にして、われ、智の足らざることを知る。故に天、われを攻めて、かく如く狂せしむ。天下の人に宜しく告ぐべし。」
 
 彦九郎はややあって、京都及び生国のある東方に向かって座を改め、柏手を打ち、心念するところあったが、やがて息絶えた。享年四十六。

 彦九郎は学者というよりは慷慨家であり、いわゆる燕趙悲歌の士である。
 世を慷慨するあまり、定信の登場や光格天皇の復古の大御心に王政復古の夢を見、多くの儒者とこれを共有しようとしたが、現実の厳しさに直面して、夢から覚め自害を遂げた。

 しかし、夢は後世に引き継がれていく。
 幕末、橋本佐内に「燕趙悲歌の士」と評されることになる西郷隆盛は薩摩藩校造士館に学んだが、後に彦九郎が木曽山中で山賊に酒代をせびられたときに一瞥するなり一喝して通り過ぎた逸話を表した絵の画題として次の漢詩を詠んだ。

精忠純孝、群倫に冠たり。
豪傑の風姿、画くとも真なり叵(がた)し。
小盗胆驚く、何ぞ恠(あや)しむに足らん。
回天の創業、是(これ)斯(こ)の人。
 
 大河は一人の悲劇を飲み込んで、滔々と流れていくのである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
高山彦九郎の場合…松平定信の異端禁制 B  (「江戸期の学問の大河」 その十一) 西郷隆盛/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる