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zoom RSS 尊号事件…松平定信の異端禁制 A (「江戸期の学問の大河」 その十一)

<<   作成日時 : 2016/07/26 17:00   >>

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定信が非常の覚悟を以て幕政を根本から正す政策に取り組んだ矢先に持ち上がったのが、いわゆる尊号宣下の問題であった。

 問題は、光格天皇が実父閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈りたいと言い出したことからはじまった。光格天皇は、二十二歳の若さで崩御された先代後桃園天皇にその年に生まれたばかりの皇女しかいなかったため、急遽、閑院宮から養子に迎えられて皇位を継がれたお方である。
 朝廷の復古に尽力された、江戸期の中では特筆に値する天皇である。新嘗祭や大嘗祭を名実ともに復古した。また、御所千度参りの際は、民の救済を、京都所司代を通じて幕府に申し入れた。これは「禁中並公家諸法度」違反であったが、光格天皇はそれを知った上で敢えて、関白鷹司輔平に命じてこれを行わせた。幕府は非常事態と見て、千五百俵の米を放出し、法度違反については不問に付しているから、幕閣は柔軟に対応したことがわかる。

 尊号の問題でいえばむしろ、平安時代中期の冷泉天皇の時代より久しく用いられてこなかった「天皇」の称号をこの代において、約九百年ぶりに復活されたことの方がわれわれ後世の日本人にとっては重要だろう。光格天皇が崩御されて七十年の生涯を終えられた時、その復古の功績を振り返って「光格天皇」と諡されたのであるが、それはおそらく武家勃興以前の朝廷の姿を取り戻そうとされた光格天皇の大御心に叶っていたと拝察されるのである。


 さて、光格天皇の父である典仁親王は、東山天皇の御孫に当たるが、当然のことながら皇位を継いだことはない。
 光格天皇が、天明年間を通じて天災人災相次いだことから差し控えてきた、年来の宿願である尊号宣下を朝議にかけられた御心は、もっぱら孝道の観点からで、家康が定めた「禁中並公家諸法度」において、親王は関白および左右大臣の下位に位置づけられて、朝廷の儀礼において臣下の列に加えておくことに、積年、心を痛めてこられたからであった。まして典仁親王は高齢で老衰はなはだしく、天皇は何とか存命中に尊号贈与を果たしたかったのである。

 朝廷においてこの議が最初に取り上げられたのは天明八年四月のことで、前年六月に老中首座、三月に将軍輔佐を拝命したばかりの定信が上洛する直前のことであった。
 朝廷では、後堀河天皇が「後高倉院」の、後花園天皇が「後崇光院」の尊号を、その父親王に奉った先例が取り上げられ、議論が進められた。ちょうどそのタイミングで上洛参内した定信は、朝廷尊崇の実を示して、公家社会を感服させ、時の関白鷹司輔平とも懇親を結び、以後、尊号問題についても意見を交換する関係を結んだ。

 鷹司輔平という人物は、二十歳前後の若い時に、関白近衛内前の宝暦事件における処置を内大臣として補佐した経歴を持つ人物であった。この天明八年、輔平は関白に昇進し、五十歳になっていた。二年後の幕府における異学禁制は、朝廷における思想統制の必要性を肌身を持って経験した輔平の助言に基づく面もあったのではないか。もっとも、朝廷が異端として排除したのは、幕府が正学とした朱子学の一派であったのだが。

 さて、この尊号問題が京都所司代を通じて正式に幕府に伝えられたのは翌寛政元年八月のことで、武家伝奏が所司代に内談に及んだのが二月のことであるから、幕府にとって寝耳に水の話ではなかった。

 現代的な感覚からいえば、「孝」の精神を重んずる朱子学者なのだから、天皇の親孝行である尊号宣下ぐらい別に認めてもいいじゃないかと考えるが、定信の見解は違っていた。
 名器は私物にあらず。
 彼は朱子学的道義論、大義名分論から、皇位を継いだ事のない御方への「太上天皇」号の贈与を否定したのである。先例についても、「後高倉院」のケースは承久の変乱後の皇統の混乱の中での出来事であり、「後崇光院」のケースも、後花園天皇の治世は足利義教と義政の時代に重なり、応仁の乱に向けて戦乱相次ぐ時代であり、先例としてふさわしくない、とした。
 確かに、皇位の乗っ取りを企てた足利義満が、その達成を目前に没すると、朝廷は何を思ったか、彼に「太上法皇」の尊号を贈ろうとし、幕府がこれを辞退するという事件があり、尊号の問題が秩序の混乱を象徴する問題であったのは間違いない。
 
 ちなみに朝廷が義満に贈ろうとした尊号は正確には「鹿苑院太上法皇」であるが、その由来となった、金閣寺で有名な鹿苑寺は、義満以後の歴代足利将軍の位牌を祀っていたが、今回のいわゆる天明の大火で灰燼に帰している。
 足利将軍家は家康以来徳川将軍家の天下経営における反面教師であり、このような偶発的事件も、定信には、善処せよとの天命、あるいは東照宮の神意として受け止められたかもしれない。応仁の乱に始まる戦国の世を終わらせ、朱子学を採用することで泰平の基を築いた東照宮を信仰する定信としては、この尊号問題に神経質になったとしても当然であった。

 定信は先の論で幕閣の意見をまとめ、朝廷に再考を促す一方で、関白鷹司輔平に、参考のために、和漢の歴史的事例及びこの問題に関する議論を書き集めて送っている。
 以降、江戸・京都間で数度の意見が交換され、双方議論を深めた上で、朝廷は尊号の件は暫時猶予、その代りとして、藤原道長の圧力により皇太子を辞退し、代わりに准太上天皇の待遇を得た小一条院(敦明親王)に準する待遇を幕府に求めた。これにより、閑院宮は在来の所領千石、天明四年の一代限りの贈与千石、さらに今度の千石を加えて都合三千石になり、宮に対する孝養も立つ、というのである。
 幕府では評議の結果、この案を受け入れた。
 これが寛政三年六月のことである。

 しかし、定信の安堵もつかの間、鷹司輔平が関白を辞職し、一条輝良が関白になると、朝廷は再び尊号宣下の問題をぶり返してきた。前関白によりこのことが定信に伝えられたのは、寛政四年正月のことであった。
 幕府が官学の朱子学への統一政策である異学禁制を発布したのが寛政二年五月のことで、定信が朱子学的大義名分論によって、関白に尊号に関する先例集を送ったのが同三月のこと。朝廷に再考を求めていた時期と重なる。彼が公然と拒否の態度を示すのではなく、朝議に再考を求めるという態度を取ったのは、朝廷尊崇の思想的立場から来ている。

 関白との書簡によるやり取りの中で、自分一己の所存とした上で、

「尊号の御沙汰これなく、ただ御孝養を尽くされ候御事は、誠に以て百王に度越いたし候聖代の御政(おんまつりごと)と存じ奉り候。かつこの度の御正(おんただし)にて、末々までもこの事絶え候わば、万世の御亀鑑と相成り、皇統磐石の御固め、和漢例少なき御正義にて、復古の御政、この上もこれなき儀に存じ奉り候。」

と言っているのは、日々、東照宮に天下泰平を祈念している定信にしてみれば、心からのものであっただろう。

 彼の政治的姿勢は基本的に公武合体といってよい。
 東照宮の子孫にして、老中首席に抜擢された譜代大名の立場で忠孝を尽くして天下に臨んでいるわけだから、どうしても政治的に幕主朝従という限界はあったが、幕府の復古と朝廷の復古が並び行われてこそ、天下の泰平は成就されると考えていたのは先に示した書簡にある通りである。
 だから幕府は「正学」を励行することで自らを正し、朝廷も自ら「御正」しいただくよう働きかけてたのである。

 異学禁制に『論語』の「政とは正なり」の思想が含まれている事はすでに述べた。「正学」である朱子学の大義名分論もまた『論語』の「必也正名乎」、いわゆる「正名」の思想に由来する。朝廷のぶれに、定信は徹底してこれを正していく臍を固める。

 彼は前関白から書簡を受け取った二日後の同僚宛の書簡に「この一件、御国体にとり容易ならざる儀」と述べ、「いよいよ奮励仕り、少しもたぢろぎ申さず、何分引き請け申すべき儀、決定仕り候なり」との覚悟を述べている。
 これは完全に幕府一己の立場を超えているが、彼が言うところの「御国体」とは家康が諸法度に定めたところの朝幕の関係を指していて、これが江戸時代の国体として作用していたのは確かなことであった。

 しかし、朝廷の立場から「御国体」をいうなら、朝廷は、幕府が東照宮と崇める家康が乳飲み子の頃より千年以上を、宋学の大成者である朱子の誕生より七百年以上を遡る『論語』受容の歴史がある。皇祖皇宗に対する忠孝の伝統はすでに千年以上の実験を経、骨髄にまで徹している。
 朱子学をかりに「正学」とするなら、朝廷は日本における「異学」の総本山といっても過言ではない。家康まで遡ってもたかだか二百年にも満たない「正学」としての朱子学で押さえ込めるほど、この伝統はやわではなかったということだろう。
 光格天皇御自身、印章に「学孔孟」、『論語』から引用した「一以貫之」、ほか『書経』からの引用をお用いになり、皇室の伝統を受け継いで、御桜町上皇への御書には

「人君は仁を本といたし候事、古今和漢の書物にもしばしばこれ有る事、仁はすなわち孝忠、仁孝は百行の本元にて誠に上なき事、常に私も心に忘れぬ様、仁徳の事を第一と存じまいらせ候事に候」

と書いておられる。
 この天子としての心得が、御所千度参りの際の人民救済の申し入れや、尊号宣下の願いに現われたのである。

 寛政三年十二月、参議以上の公卿参内のもと朝議が催され、尊号宣下問題につき諮問があった。宣下に賛成三十五、消極的反対が二(鷹司輔平・政熙父子)、他に明言せざるもの三名であった。
 賛成派の中心人物、中山愛親は、漢の高祖がその父に「太上皇」の尊号を奉った例を挙げて賛意を表している。
 彼は幕末、尊皇攘夷派の巨魁にして、明治天皇の外祖父としていわゆる「討幕の密勅降下」に関わった中山忠能の曾祖父にあたる人物である。
 彼らは光格天皇の復古の大御心を忖度して賛意を表したらしいが、そこに挙げられている歴史的事例からは、朝廷の一部に根強く存在する天皇親政復活の潜在的願望を垣間見ることができる。

 幕府が宣下無用の態度を朝廷にはっきりと示したのは寛政四年八月のことであった。

 これに対し、朝廷も評議を行い、「御名器軽からず」とだけ言われてもよくわからない、今年の新嘗祭までに宣下を行いたいので、十一月上旬までに義理分明の返答をお願いしたい旨申し入れた。新嘗祭という皇室にとって重要な祭儀において、親王を臣下の列に置いておくことが孝心において堪えられなかったのである。

 これを受けて、定信は国体を損じ、朝廷と幕府の関係に支障を来たした不忠者がいるとして、幕府の職任として、三人の公卿を江戸に召して尋問し、場合によっては罰する方針を固めて、幕閣の意見をまとめ、十月一日、京に申し送った。
 だが、これが京に着く前に、返事を待ちかねた朝廷では、十月上旬には閑院宮に尊号宣下の内意を伝え、十一月上旬に宣下する旨、重ねて所司代に申し入れたのである。これが二日のことであり、四日になって幕閣の強い意向を知った朝廷は、驚いたのか、宣下の許可があるまでは決して宣下を行わない旨を答え、三卿の参向いついては婉曲に拒否した。さらに光格天皇が当年の新嘗祭は中止するお考えであることを示唆している。

 定信は朝廷が宣下を独断で決定するに至った内情を知るべく、前関白鷹司輔平に書を送り、その返書によって、中山親愛を筆頭に正親町・広橋の三卿が中心となって事を進めたことを知った。そして幕府はいよいよ、尊号宣下無用の幕府側の道理を改めてはっきりと示し、これを徹底するために、三卿を尋問して不審を正す必要があることを朝廷に伝えたのである。

 幕府としての態度は首尾一貫していて、三卿尋問の上で、尊号無用の決答を行うとし、千石の御領加増は孝養を尽くすためで、尊号とは別問題である、と伝えた。
 幕府が早い段階で決していた宣下無用の結論をここまで引き延ばしたのは、公武合体、朝廷尊崇の態度、すなわち儒学的礼節を重んずる態度から来ている。朝廷と齟齬が生じ、問題がここまでこじれたのもその態度が一因ともいえるが、幕府のその態度に偽りはなかったであろう。

 学者政治家定信が明らかにした尊号宣下無用の道理を要約すると次のようになる。

 古代シナの王朝夏殷周の礼にもあるように、尊祖重宗、分統せざるを旨としていて、いわんや万乗の御位は、天神地祇の御眷(恩寵)を象(かたど)らせられた聖祖神皇の御宝位であるから、その位を踏まれず、その統を継がれずして、太上天皇の御名を奉ることはよろしくない。かと言って、すべて先例を墨守しなければならないということではなく、ただその先例を調べて、論説・時勢・道理の当否等を一々検討の上、支障がなければやはり先例を踏襲されるべきである。まことに礼というものは大切で、無私であることは礼の重要な心得の一つであり、名器一度動けば社稷蒼生(国家人民)の興廃安危にも拘りかねない兆しであり、また外国へも聞こえる重大事である。

 つまり、婉曲にではあるが、天皇の孝心からくる尊号の贈与は、皇道にも反する私論であり、宣下無用は天下の公論である、といっていることになる。

 幕府はこれを伝えるとともに、その趣旨をさらに徹底するため、朝廷から申し送られてきた、宣下決定の朝議で行われた議論に不審の廉ありとのことで、三卿の召還を要請し、彼らを糺し、道理を尽くした上で最終決定する、とした。
 というのは彼らの議論のうちに、先例として堯瞬や 漢の高祖など王朝の創業者を挙げたくだりがあり、閑院宮を創業主になぞらえる議論は先帝後桃園天皇に対して問題があるからである。

 さらに穿った見方をすれば、光格天皇を創業者になぞらえる議論は、密かに天命を受けて天下を統治しているとの立場に立つ幕府にとっても、幕府統治の根底に触れる議論として聞き捨てならなかったのではなかったか。


 朝廷は公卿の下向をできる限り引き延ばしたが、結局、幕府の強い要請に折れた。幕府は、江戸において中山・正親町二卿を尋問し、その上で彼らを幕府の職権において罰したのである。

 定信が、尋問が進むにつれて、最も厳しく経緯を追及したのは、幕府の返事を待たずに朝廷が宣下を決定に及んだ件と、二卿がこの度の下向に際して御宸翰(天皇の親書)を携行した点で、この件における議奏筆頭中山と伝奏正親町の不忠軽率の振る舞いを問題視したのであった。
 彼らは江戸において閉門蟄居を命じられ、御役御免については朝廷に申し入れてこれを行う形を取った。定信は関白二条輝良の罷免も朝廷に申し入れるつもりで将軍の裁可も得ていたが、結局このことは行われなかった。

 この尊号宣下事件は定信の朱子学的イデオロギーとその実行面におけるリゴリズム(厳格主義)が最も発揮された事例と言えるだろう。そのこだわりが平和に寄与する面がどれほどあったか疑問である。

 典仁親王は維新回天成って、皇室が朱子学的規範を取り入れた明治になって、その末裔に当たる明治天皇によって、慶光天皇の諡号と太上天皇の称号が追贈されている。
 長い目で見れば、明治天皇のこの柔軟な態度の方が、孝道において、国民を感化する力は大きいと思えるが、天下の大政を預かっていた徳川家の一員として、全力で天下を立て直そうとした定信の志だけは認めておく必要があるだろう。

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