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zoom RSS 松平定信の異端禁制 @(「江戸期の学問の大河」 その十一)

<<   作成日時 : 2016/07/21 17:01   >>

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 松平定信が老中主席に抜擢される以前、幕政を牛耳ったのは、あの金権政治で悪名高い田沼意次であった。
 田沼時代は幕府の財政再建を課題とする時代で、重商政策を取ったことから贈収賄が横行したとされる。が、これは幕府保守派から見ての批判で、政治家としては開明的な政策を採用した一種の豪傑であった。彼の父は紀州藩の足軽で吉宗が部屋住みだった時代に側近として仕えた経緯から、吉宗の将軍就任とともに旗本に取り立てられた。息子の意次は後の九代将軍家重の小姓に抜擢され、以後とんとん拍子に出世を遂げ、十代将軍家治時代も側用人、老中へと出世し、重用された。
 

 これに対し、定信は御三卿の一つ田安家の当主・徳川宗武の七男で、吉宗の孫に当たる。言わば徳川家の貴種で、田沼意次に対する批判は、成り上がり者に対する差別意識もどこかで作用していたかもしれないが、基本的には定信のこの血統に対する責任感と朱子学的教養からくる激しい批判であり、一時は田沼殺害を思いつめるほど、彼を、彼の政治を憎悪した。

 幼い頃から日本や唐土までも名を轟かさん、との志を立て、自己修養に努めた定信は、若い頃からその賢才を知られ、反田沼の保守勢力から将来を嘱望された。
 田沼時代の後半に当たる天明年間は天災人災相次ぐ不幸な時代で、大飢饉に加えて、浅間山が噴火し、江戸大坂ほか各都市では打ち壊し騒動が頻発した。田沼は要するにこれに対処し切れなかったわけだが、儒学的教養を持つものからすれば、これらの現象は天意の現われであり、徳川による統治の根拠が否定されかねない非常事態であった。彼らにとって徳川の天下が瓦解していくのを目の当たりにする思いがしたであろう。
 徳川の貴種であり、朱子学的忠孝の権化である定信がこれを何とかしなければと思いつめたのは必然的で、その元凶であると見た田沼を除こうとしたのも、その一念からくるものであった。彼自身が後に告白しているように、その憎悪の対象である田沼に賄賂を贈ってまでも近づこうとしたのは、手段を選ばぬほど、この危機に切迫感を感じていたことの証左である。
 これは一徳川家のために謀るということではなく、天下のための統治を行うのは東照宮家康の遺訓、徳川家の言わば家訓であり、延いては天下のために謀ることを意味したから、決して、天下を徳川家で私物化するというようなケチな話ではなかった。
 彼は老中、将軍補佐の重職への奉職中を述懐して、日に七、八度は、天下の泰平を東照宮に祈念していたと告白している。彼の建議が天下の御為にならないなら、神慮に応ぜずということで、天下に災いをもたらすことなかれ。私を殺し、妻子を殺してでも、天下の災いを止めたまえ。そう祈念していたという。
 家康自身、天道を深く畏れ、太平の基を開いた神であったわけだから、彼の信仰はその道と矛盾しない。

 彼は十五歳の時、白河藩主松平久邦の養子となり、藩主の地位を継いで善政を行ったが、天明六年将軍家治が薨じ、田沼意次が罷免されると、翌七年六月、打ちこわしで江戸の町が騒然とする中、反田沼派の期待を一身に集めて、老中首座、次いで将軍輔佐役に抜擢された。
 彼は一命を懸けて幕府中興の改革に臨んで歓迎されたが、田沼時代に弛緩した風俗の引き締めを図り、文武を奨励し、倹約令を励行した。ある意味時勢に抗う政治を行ったわけだが、一方で、彼の老中就任に前後して、各都市における打ちこわしは最高潮に達し、京都では御所千度参りという不思議な現象が起きていた。生活苦に陥っている近畿一円の庶民が御所にお参りする現象で、六月七日頃始まり、十日頃には延べ三万人、十八日頃には延べ七万人ほどが参拝したという。まさに世直しの機運が最高潮に達したところで、定信の登場とあいなったわけである。朱子学者である彼がこの符合に天命を感じ取ったとしても無理はなかった。

 しかし、追い討ちをかけるように、翌天明八年正月晦日夜、京都は未曾有の大火、いわゆる天明の大火に見舞われた。禁裏御所、二条城、神社仏閣、京市街の大半が焼失した。
 定信は復興財政の困難を心配する将軍に対し、御神徳(東照宮の、であろう)に対する信仰から、すべて禍にしたがって、その処置が宜しきを得れば、却って幸いになることもある、却って御勝手御復古の基になしうるかも知れず、ということを言上し、五月には京都再建のために、沿道視察も兼ねて、自ら上京し、参内した。彼は朝廷の礼儀作法に則って光格天皇に拝謁したため、公家社会における評判は上々であった。

 彼の在任時の政策中、寛政二年(一七九〇)の異学の禁は有名だが、これは異学弾圧というより、官学における朱子学への統一を趣旨とした政令である。政策である以上、その功罪は批判の俎上に載せるべきだが、少なくとも、政治的動機としては、当時、古学や古文辞が流行していて、これらを風俗を乱すものとして、正学と異学の別を立て、幕臣への異学、すなわち異端の学問の講義を禁じるということであった。仁斎の古学はともかく、徂徠の古文辞を学ぶ者は放蕩無頼に陥りやすいとの評判があったのを想起してもらいたい。『落穂雑談一言葉』には、この頃の江戸のはやりものを表した落書きの中に、「朱子学・古学のいぢり合」という一節があったことが記されている。古学・古文辞学のほうでも、自身を正学とし、彼らを異学と決め付けた朱子学に対する反発があったのだろう。

 定信は林大学頭に異学を禁ずるとともに、儒官にも柴野栗山を筆頭に尾藤二州・古賀精里などの朱子学者を採用したが、彼らとて、古学や古文辞を批判したとはいえ、こちこちの朱子学者ばかりというわけではなかった。かれらの同志には、寛政の改革にさきがけて、藩校における異学を禁じさせた安芸広島藩の藩学教授・頼春水もいた。幕末における尊王賎覇思想の宣教書のような働きをなした『日本外史』で著名な名文家・頼山陽の父である。
 同志の中でも異学禁制に強硬であったのはこちこちの朱子学者であった西山拙斎であったが、彼でさえ、寛政三奇人といわれた人物の一人、勤皇家高山彦九郎とは親密で、尊王賎覇の思想は濃厚であった。彼は『大日本史』を読んで、賞賛する漢詩を詠んでいる。濃淡差はあっても、彼らの内で皇室の貴さを解さなかった人物はいなかったのである。

 江戸期の大義名分論は朝廷の尊崇を自明とするところまで成熟していた。もちろん彼らは代々朱子学を正学として用いてきた幕府を否定しはしなかった。むしろ覇道を賎しむからこそ、幕府の朱子学的改革に努めたといっていい。

 そもそも「正」の対義語は、「邪」であって、「異」ではない。
 「異」の対義語は「同」だ。
 
 同志の中心人物である柴栗山に対して、「異同」「正邪」の視点から、異見は認めるべきと訴えた赤松滄州のような人物もいた。
 彼の異学禁制に対する批判の趣旨はつぎのようなものだ。
 古人が言うように、人の心がそれぞれ同じでないことはその面がそれぞれ同じでないようなものである。書を読んで道を学ぶといっても、その見る所はそれぞれ異なり、しかもその尊信する所はみな孔子の教え、すなわち孝悌忠信、仁義礼楽、治国安民に他ならない。もっぱら朱子学を信ぜずとも、漢唐の注釈を用い、あるいは王陽明の学に従い、あるいは仁斎・徂徠の説を用い、博く諸説から取って、学者がただその好む所に従うだけなら、智愚不肖の差はあってもそれは用い方の問題であって、いまだ道に害があるというわけではない。むしろ、朱子学に埋没する事のほうが有害でさえある。
 滄州はさらに極論して、朝廷の博士家は古来、旧典の注釈に依っていて朱子の注釈には従わない、ならば朝廷が邪学を用いているということになる。朱子学を正学というのは公論とはいえないではないか、わが国における朱子学の開祖藤原惺窩や林羅山でさえそこまで偏僻ではなかった、とまで言って批判した。栗山はこれに答えなかった。

『論語』には孔子の言葉として「異端を攻(おさ)むるはこれ害のみ」とあって、朱子はここに言う「異端」とは仏教・老荘を含む諸子百家の説とした。これらを学ぶことを有害と解釈したのである。
 だが、諸子百家の説は孔子の時代には存在しなかった。だから徂徠は古文辞によって「攻」の字を「攻(せ)める」と解した。つまり徂徠流に解釈すれば、異端を「攻める」すなわち非難排撃したところで有害なだけである、との意味になるから、朱子学・徂徠学いずれにしても彼らの「聖典」は異説弾圧の根拠とはならないのである。

 彼らが伝統的に「攻(せ)むる」べきとしたのはむしろ、彼らが有害と見、「邪」説視した仏教や耶蘇すなわちキリスト教であった。こうしてみると滄州の言い分は江戸時代の正論である。
 しかし、同じく『論語』の言葉を引用するなら、「政とは正なり。子、帥(ひき)いて正しければ、だれか敢えて正しからざらん」である。栗山や定信が異学禁制を採用した目的は、天下の政道の観点から、いわば政治的プラグマティズムから、朱子学を正学とすることでこの紊乱を正すのだ、というところにあったといえるだろう。だから家臣である旗本の学問を統一しようとした。
 大義名分論の学者たちによる、本来なら対立しえない「正」と「異」という文字「名」の使い分けは、しっかりとした思想的根拠を持つのである。

 

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