西郷隆盛

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zoom RSS 明和事件 (「江戸期の学問の大河」 その十)

<<   作成日時 : 2016/07/15 15:59   >>

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京都を追放された竹内式部は、伊勢内宮の権禰宜・蓬莱尚賢を頼って伊勢宇治に赴き、家来の鵜飼又太夫宅に寄寓した。

 蓬莱尚賢は和漢の学問に造詣深く、賀茂真淵や本居宣長に師事した人物で、のちに(安永二年、一七七二)『古事記伝』を精読して感銘を受けている。彼はまた、宣長の思想への影響を図示した「恩頼図」にあった、伊勢の垂加神道系国学者・谷川士清の娘婿でもあった。宣長の母方の実家は垂加神道を信仰していた。
 
 もちろん式部は垂加流の学説を天皇に進講して、京都を追放になった人物である。宝暦事件の内容は当然のことながら、彼らにも伝わっていたであろう。伊勢松坂で宣長が伊勢参りに訪れた真淵と、生涯一度限りの会見し、弟子入りしたのは宝暦十三年のことであるから、式部は、距離的にも、人脈的にも、彼らのかなり近いところにいたのである。

 宝暦事件はその後の宣長の『古事記』解読作業、あるいはそのあり方に間接的刺激を与えた可能性がある。式部一件から伝え聞くところによると、朝廷は伝統を守ることに頑固である。かりに天皇御自身が草莽の新流の学問を受容することにおいて柔軟、かつ積極的であったとしても、だ。
 皇室を尊崇することにおいては人後に落ちない国学者においては、天皇のこういった態度を灰聞して、希望を持ったことであろうし、またこれを許容しなかった朝廷には失望もしたことであろう。これは朱子学を公認の学問としつつ式部を追放刑に処した幕府に対しても同じである。

 もとより、宣長にとって神書の朱子学的概念に基づく解釈など曲説に過ぎない。朝廷伝統の仏説に基づく吉田神道の解釈などなおさらである。
 しかし、儒学、それも朱子学からさらに異端の新流と見做されていた徂徠学を通じて神書に対する見識を堅固に磨き上げていた宣長としては、式部と同じ轍を踏まないためには、徂徠学の影響は表向き否定されなければならなかったし、日本古来のやまと言葉による神書の解釈は徹底されなければならなかったであろう。
 また、朝幕の現体制に対する失望は、彼の学問を政治的には消極的なものとなし、彼の志を、古の道を明らかして、五百年・千年後であろうとも、時至って、上に採用され、天下に行われる世を待つという、悠遠なるものに研ぎ澄まさせたのではなかったであろうか。

 彼が遺した唯一の政治行動といえば、紀州藩主の求めに応じて書かれ、献上された、古道に基づく政治論『玉くしげ』及び『秘本玉くしげ』ぐらいであるが、これはあくまでも求められて仕方なくであり、政治的疑惑を呼ぶような行動は明らかに避け続けた。 


 さて、式部は伊勢で静かに暮らしていたようだが、八年後(明和4年)に起きたいわゆる明和事件のとばっちりを受けて、江戸へ召喚され、八丈島への遠島に処された。そして、護送途中の三宅島で病気に罹り、没した。享年五十六。

 明和事件とは簡単に言えば、尊王論を唱えた山縣大弐と藤井右門が幕府に捕らえられ、処刑された事件である。
 山縣大弐は幼くして、甲斐国山梨の山王権現の神職で崎門三傑の一人、三宅尚斎に学んだこともある加賀美櫻塢(おうう)に学び、長じて、荻生徂徠の高弟・太宰春台の、そのまた高弟・五味釜川に学んだ人物である。
 大弐は大岡忠光に仕えた後、宝暦十二年より、江戸八丁堀で儒書や兵書を講じて暮らしを立てていた。 奇しくも式部が追放刑に処された宝暦九年に古人に仮託して、一種の国体論である『柳子新論』を著わしている。これを読む限り、その思想は大義名分論に基づく王政復古論であるが、古の天皇を、礼楽制度を創作した聖人に見立てているところが徂徠学的である。
「異端」中の「異端」だ。

 そして、宝暦十二年には、甲府郊外にある日本武尊ゆかりの酒折宮に老師加賀美櫻塢とともに社殿を造営するとともに、境内に尊の顕彰碑「酒折祠碑」を建立している。さらに明和三年には江戸向島に、尊の妃・弟橘比売(おとたちばなひめ)の顕彰碑を建立した。
 明らかに東夷討伐の想いを込めての顕彰行為である。

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 山縣大弐は捕らえられた時点では討幕挙兵の準備にまで至っておらず、門弟への講義において大言壮語したに過ぎなかったが、彼の門弟に上州小幡藩織田家家老の吉田玄蕃がいて、藩の内紛に巻き込まれ、讒言されたため、大騒動となってしまった。取り調べの結果、大弐は、兵乱を望むような講義を内輪で行い、幕府の朝廷に対する態度を不当であると批判し、不敬の至り、不届き至極である、ということで死罪に処された。
 また、かつて式部門下生として、正親町三条公績や西洞院時名と交際し(式部と面識があったかどうかは定かではない)、宝暦事件に際して行方をくらまし、山縣宅に居候していた藤井右門は、江戸城の攻略法を論じたということで、山縣より重い罪である磔刑に処された。

 ちなみに、この事件で、織田信長の三男信雄の末裔として、二万石の国持大名としての特別な格式を認められてきた織田家は、出羽高畠へ国替えを命じられ、国主格としての地位を失っている。


 式部が明和事件に関わりどころか、大弐らと面識さえなかったことは奉行所の判決文に明記されているとおりであるが、追放の身にもかかわらず、京都に立ち寄ったことが不届きであると咎められて、処罰された。
 
 幕府はこの事件で、式部の危険性を再認識し、捨てておけなかったのだろう。
 本居宣長は山縣大弐らに連座して江戸に送られた式部の末路については関心が高かったはずだ。

 宣長は、寛政元年、大弐が顕彰碑を建てた酒折宮に建てる石碑の撰文を、甲斐在住の門弟に頼まれたが、一度はこれを拒絶している。翌年には奇しくも老中主席松平定信により異学禁制が発せられている。宣長は式部の一件を通じて、そういった時勢を敏感に感じ取っていたのかもしれない。
 しかし、思い直したのか、寛政三年に密かに「酒折宮寿詞(よごと)」を撰文し、四八年後の天保十年に、大弐の石碑の横に、平田篤胤の筆によって建碑が実現している。

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 宣長の賢明な態度は時の政治に邪魔されることなく、その大志を貫徹することを可能にした。
 式部の教訓は宣長畢生の事業に生かされたのである。


※「酒折祠碑」「酒折宮寿詞」の石碑の写真は「酒折宮」公式ホームページより転載させていただきました。

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