西郷隆盛

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zoom RSS 「やまとごころ」の極北 本居宣長 (「江戸期の学問の大河」 その七)

<<   作成日時 : 2016/06/28 17:15   >>

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 しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花 

 国学史上、後世に最も影響を及ぼした人物といえばやはり、賀茂真淵の弟子で、この有名な和歌の作者である本居宣長であろう。

 その宣長の養子大平の書いた「恩頼図(みたまのふゆず)」というものがある。

 大平が養父にして師である宣長の学問をある人に説明するために即興で書いた図解だが、そこで宣長の学問の系譜は次のように表されている。

「西山公、屈景山、契沖、真淵、紫式部、定家、頓阿、孔子、ソライ、タサイ、東カイ、垂加」

「西山公」は水戸光圀のこと。
「屈景山」は京都の朱子学者堀景山で、青年期に京都に遊学した宣長は彼の塾で多くを学んだ。堀の学問の間口は広く、徂徠を尊敬し、契沖の著書の出版にも尽力した。曾祖父は藤原惺窩の弟子堀杏庵である。
「契沖」「真淵」はもちろん国学者である。
「紫式部」はいわずと知れた『源氏物語』の作者で、宣長はこの著で「もののあはれ」というものを学んだ。
「定家」は歌道の巨匠である藤原定家。『新古今和歌集』の撰者である。
「頓阿」は南北朝時代の僧にして歌人。
「孔子」は孔子、「ソライ」は荻生徂徠で、宣長は堀景山の塾で徂徠の『論語徴』に出会っている。彼はその晩年、「聖人と 人は言へども 聖人の 類ならめや 孔子(くじ)はよき人」と詠んでいて、終生孔子への尊敬を失わなかったが、その孔子像は徂徠の孔子像に依拠していた。 
「東カイ」は伊藤東涯で、「古義学」仁斎の長男。徂徠がその死に臨んで「日本の中で自分を理解してくれるものは東涯ただ一人であろう」と述べるほどの学力の持主であった。
「タサイ」は太宰春台で、生前の仁斎に直接学んだこともある徂徠の弟子である。その衣鉢を最も継いだのが春台で、師の死の数年後、浪人の身でありながら処罰覚悟で吉宗の世子家重に意見書を提出したが無視された。後『易経』を重視して徂徠の説を批判的に展開することになった人物である。
「垂加」は山崎闇斎の神道号だが、ここでは彼が創めた垂加神道を指すらしい。彼の母の実家が垂加神道を信仰しており、宣長自身、垂加神道系の古学者谷川士清との親交があった。
紫式部、藤原定家、頓阿以外はすでに出てきた名だ。

 江戸儒学の大河が本居宣長という一人格に流れ込んで凝縮していく様が、この「恩頼図」には端的に表現されている。これに加えて宣長が伊勢神宮のある伊勢の国松坂の住人であったことも大きかったであろう。
 江戸儒学の大河が宣長という一人格に流れ込んで、これが一気に日本の始原へと向かっていくわけであるが、この劇的な流れの転換はやはり、儒学をラジカルに、またプラグマティックに突き詰めた徂徠学の末路が転換点になったであろう。賀茂真淵がそれを間近に見据えていたことはすでに触れたが、宣長もまた、二人が出会う前、すでに徂徠学に触れて同じものを見据えていたことが彼の遊学中の書簡に窺えるのである。

 彼は堀塾の空気を吸って、様々な学問に興味を持ったが、儒学を学ぶ同窓からは、仏教説に興味を持ったことをたしなめられたり、和歌を嗜むことを非難されたりしたことがあった。
 これに対する彼の返答は次のようなものであった。

 儒の説く聖人の道は「天下を治め、民を安んずるの道」であり、自分にしても、君らにしても、治めるべき国や安んずるべき民がある身分ではない。

 彼もまた明らかに、徂徠学に依拠し、その末路を見据えている。
 聖人はともかく、仁斎や徂徠のみならず、孔子ほどの人でさえ同じ境遇にあったのであり、だから孔子は道を行うことに失敗し、六経を修めて、これを後世に伝えようとした、と彼は説くのである。
 そこで彼自身は、風雅の道を好み、信じ、楽しむわけだが、この態度もまた『論語』の一節から学んだと言う。彼が、若い頃から、古典を修めて、これを後世に伝えることをまっすぐ志すようになったのは、彼自身がいくら否定しても、孔子の人生や徂徠学からの影響は否定できない。

 彼は初学者の学問に対する態度を述べた『うひ山ふみ』で大略次のように述べている。
 学者はただ、道を尋ねて明らかにするよう努めるべきで、私に道を行って満足すべきではない。古の道を考究し、その旨を人に教え諭し、また物にも書き遺し置いて、五百年・千年後であろうとも、時至って、上に採用され、天下に行われる世を待つべきである。これが宣長の志である、と。

 彼は孔子や徂徠の仕事や人生の終着点を見据えた上で、志を立て、出発しているのである。

 漢学は国学勃興の触媒となった。彼が国学の祖とみなした契沖でさえ、朱子学に心酔した水戸の義公の国典に対する関心が、万葉研究の触媒となっていた。
 宣長が『源氏物語』に「もののあはれ」を見出して『紫文要領』を書いたのが三十四歳、『古事記』の注釈である『古事記伝』に着手したのも同じ頃である。以後三十五年掛けて『古事記伝』を完成させた。

 彼が契沖の万葉研究に触れたのは堀塾在籍中だったらしい。彼は契沖の、古書や古歌には本来の姿があり、これをそのまま直かに見なければならない、とする一大明眼にふれて、目が覚めたという。
 これは歌道の話であるが、この一大明眼は、宣長の中で古道へと応用発展していく。
 三十四歳の時の賀茂真淵との邂逅は、それをさらに推し進めた。
 その過程で、宣長は日本固有の心である「やまとごころ」「大和魂」を闡明するが、それは、彼の古学における儒学、特に仁斎の古義学と徂徠の古文辞学の影響を頑なに認めなかったことからもわかるように、当時の思潮である「漢心」の排撃と表裏一体をなしていて、彼としてはどうしてもこれを認めるわけにはいかなかった。というのは、当時、神道でさえ、神仏習合はもちろん、神儒習合が当たり前で、彼が言うところの「からごころ」がそれと自覚されることなく神道の教説に取り入れられていて、純粋の神道というものは存在しなかったからである。

 彼もまた、矛盾を孕みつつも、この矛盾に堪え、「からごころ」との対立緊張を内面に抱えながら、純粋な古神道への探究を推し進めた。この内面の緊張が「やまとごころ」の高らかな闡明と「からごころ」排撃の強い言葉となって吐き出されたといってよい。 

 彼の主張を要約すると、漢国には「まことの道」が伝わっていないから、世の中のすべての出来事をみな天のせいにして、天道・天命・天理などといって、これを畏れ敬うが、これらは、太極無極・陰陽・乾坤・八卦・五行など含めて、みなかの国人のさかしらにより、偽り、飾り立てた、もっともらしい造説(つくりごと)である。問題は、漢籍を読む者のみ「からごころ」にとらわれているかといえばそうではなく、漢国をよしとし、これに学ぶ世の習いは、漢籍が渡来して以来千年以上経っていて、書を読まぬ人でさえ気づかぬままにこの心にとらわれてしまっている。つまり、宣長はほとんど当時の日本人全体に対して批判しているのである。

 では、宣長はどうすればよいというのか。

「まことの道」を学ぶものは古歌・古語を学んで、「大和魂」を予め堅固にし、「からごころ」に陥らぬよう防御したうえで、道を学ぶがよい。では、その学ぶべき「まことの道」とは何かといえば、天照大神の道、これを受け継いだ天皇の天下をしろしめす道であり、それは記紀、特に『古事記』にある神代上代の諸々の事跡の上に伝えられているという。
 これを凝縮したのが『古事記伝』の総論「直毘霊(なおびのみたま)」で、宣長はこれを四十二歳の時に書き上げているから、かなり早い時期に「まことの道」の奥義に到達していたことがわかる。

 「からごころ」の問題は、文字をもたぬ、口承伝承の豊かな世界を生きてきた古代日本人が、「からごころ」を満載した漢字という文字に出会い、これを換骨奪胎して、簡略化した仮名を交えて、文字表記を行うようになったことに伴う、日本人の宿命といってよく、明治維新後は、何事も西洋をよしとし、さかしらな西洋人のつくりごとに惑わされてきた現代にも通ずる問題であり続けている。
 宣長の論が保守の間で文化防衛論であるとされる所以であるが、日本人の本格的な「からごころ」との出会いが、記紀に記録されている応神天皇の御代の『論語』の渡来だとすれば、孔子をこよなく愛しつつ、「まことの道」の探究を続けた宣長は日本人の「からごころ」による経験の始原に立ち、そこからさらに向こうに向かって歩み始めた思想家といっていいのである。
 
 彼はこの「からごころ」の認識を言わば盾にして、戦いを、歩を、進めていった。しかし、この盾は、敵に対して厳(いかめ)しい字面が刻まれた堅い表面を向けている一方で、それと表裏一体の裏面は、内を向いて、そこには徂徠によって彫琢された孔子像が描かれている。彼のもう一方の手に握られていたのは「大和魂」で、譬えるなら矛であるが、これは祭祀用の矛であって打撃力は持たない。そういうものであった。

 しかし、この「からごころ」の排撃は、すでに社会に浸透し、大河として流れつつあった儒学の根幹を根底から揺さぶるものであり、時間の経過とともに、支持者を増やして、「古義学」「古文辞学」の朱子学批判と併せて、無視し得ないものとなっていった。
  

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2017/04/07 21:38

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