西郷隆盛

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zoom RSS 豪傑儒・荻生徂徠 (「江戸期の学問の大河」 その六)

<<   作成日時 : 2016/06/22 07:54   >>

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 徳川綱吉が抜擢した学者の中に、側近柳沢吉保の家来であった荻生徂徠がいる。まだ朱子学の影響下にあった徂徠だが、綱吉の在職中に起きた赤穂浪士の処分には徂徠の意見が採用されるなど、学者としての見識にはすでにただならぬものがあった。綱吉の死後、藩命により綱吉の伝記『憲廟実録』の編纂に関わっている。

 徂徠は幼少の頃、林羅山の三男春斎、その次男の信篤に儒学を学んだことがあったが、彼の学問を地に着いたものにしたのはあくまでも独学にあった。
 彼の父・方庵は医者にして儒者として、館林城主であった綱吉に仕えたが、延宝七年(一六七九)、徂徠十四歳の時に、主の不興を蒙り、上総国の草深い田舎に流罪となった。この十数年にわたる下層民に囲まれての不便な田舎での暮らしが彼の学問の基礎となった。彼は後、八代将軍吉宗に提出した『政談』で、「憲廟」すなわち綱吉から蒙った御恩の最たるものが、この南総へ送られたことであった、という趣旨の事を述べている。

 この間に、徂徠は京の堀河に塾を開いていた伊藤仁斎の名声を聞き、これを慕った。後に書簡を送って、その想いを告白し、不審点について質したが、返事がなかったこともあって、これを根にもち、その後批判者に転じた。実は、仁斎はこの時病んでいて、返事を送ることができなかったのだが、その死後(宝永二年三月)、仁斎の伝記史料『古学先生碣銘行状』が編まれるに際して、徂徠の送った書簡が無断で付録として掲載されたことに対する不信もあったようである。
 しかし、何よりも徂徠の学識の徹底が仁斎の学識の不徹底を衝いたのが江戸儒学史にとって重要である。

 四書を重視するという点で、仁斎の学問は朱子学の余臭を脱しきっていない、というのが徂徠の批判である。これに対し徂徠が唱えた「古文辞」とは、秦漢以前の書、すなわち古代の書しか読まず、原典を書き下し文ではなく漢語として、しかも、できるだけそれが書かれた当時の原意によって読むという方法論であった。彼は、今文を以て古文を視るな、と何度も訓戒している。当然、音は原音で読むことに行き着くが、これについては唐音までが限度で、古代の音の復元にまでは至らなかった。

 この「古文辞」という方法論の確立には徂徠本来のラジカルな素質に加えて、彼が仕えた柳沢吉保が学問好きで、しかも黄檗宗に帰依していて、唐音を心得ていたことが大きかっただろう。幕府の庇護下創建された黄檗宗のいくつかの寺院にはシナ人僧侶がいたのである。

 彼らの主君に当たる綱吉自身も、家臣に対する晩年の講義草稿には、聖人の道を説くくだりで、唐音での読み仮名をびっしり書き込んでいて、原典に少しでも近づこうとの熱意には相当なものがあった。
 『徳川実紀』によれば、それ以前の元禄十六年二月十三日の柳沢邸での講義の際は、唐音にて『大学』を講じ、問答が行われた旨の記事がある。臨席した徂徠もまたその熱気を胸一杯に吸い込んだに違いない。彼の綱吉に対する敬慕の念は終生変わらず、その政治を覆した次代将軍家宣、これを補佐した新井白石に対する反感には相当なものがあった。

 綱吉の死後、四十四歳の徂徠は藩邸を出て江戸の市井の儒者として暮らすことになった。日本無双の名儒との評判を得、総じて世上のためにもなるように、との柳沢吉保の配慮があったからである。
 徂徠は、俸禄はそのままに、自由の境涯を得た。
 彼の学問の大成はそこから始まる。
 朱子学の立場から仁斎を批判した「蘐園随筆」を経て、その朱子学的立場を棄てて、『弁名』『弁道』『学則』『論語徴』、そして八代将軍吉宗の求めに応じて献呈された『政談』などを執筆した。

 彼の学問の特徴はもちろん「古文辞」の学習にあるのだけれども、それを経書の解釈にまで大胆に応用したところに独創性が発揮されたのである。彼は儒学を、朱子学が持つ道学臭を、事実に基づく政治学へと転換した。

 仁斎の朱子学批判である「道は行ふ所を以て言ふ。活字なり。理は存する所を以て言ふ。死字なり」によって、「格物窮理」という言葉に象徴される、世の物事をすべて理に還元できるとする朱子学のドグマは溶解し始めたのだが、これは朱子学者林羅山の『中庸』の理学的解釈に基づき天下の諸法度を定めた家康の磐石の体制を批判的に発展しうる端緒となりうる。

 仁斎のこの思想を受け継いだ徂徠の朱子学批判はさらに徹底している。
 徂徠は朱子学の内面修養論を仏教・老荘の影響と見、誰でも聖人になれるとの説を否定した。徂徠によれば、「聖人」とは堯・舜・禹・湯・文・武などの古の統治者のことであり、これら聖人の知は計り知ることはできない。そして、その聖人が、天命を受けて、天下国家を治めるために創作した技術、規範、礼楽刑政の諸制度そのものが道であるとした。
 その道は経書に記されているが、大なるがゆえに、また「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」ものであるから、知りがたく、言いがたい。だから道を真に知るには言語、それも外国の言語である漢語を、しかも、できる限り、それが書かれた時代に近い古の漢語を体得しない限り、会得しえない。そこで広く古書を学ぶ「古文辞」の学習が欠かせないのである。 

 宋儒はこの「古文辞」を知らないとの批判は朱子学の屋台骨を揺るがすものであり、かなりの衝撃を与えたらしい。吉宗の時代、徂徠学は関東を中心に一世を風靡する勢いであった。

 しかし、徂徠学はそれを発展させうる後継者に恵まれなかったこともあって、徂徠の死後、しばらくして凋落した。いつしか徂徠学を学ぶと放蕩無頼になるとの評判が立つようになった。原因は徂徠の思想が持つ強い政治性と、その反動としての政治に対する無関心、そして道徳的修養への無関心にある。徂徠の人格において見事に統合されていたこれらの諸要素は分解し、要素ごとに各弟子に受け継がれていったのである。徂徠学は異端の学となった。

 徂徠はその晩年、八代将軍吉宗が彼の献言を容れて幕府中興の政治を行うことに期待した。吉宗もまた綱吉の政治を模範とし、各派の儒者を登用して、学問を奨励したが、振るわなかった。吉宗は綱吉のように学問を自ら率先垂範して行ったわけではなく、しかも綱吉の強制的なやり方に旗本が懲り懲りしていて、学問奨励には逆効果であった経緯から、自発的な講義への出席にこだわったからである。

 徂徠の目から見て中興は一向に行われる気配はなかった。
 徂徠は死の床にあって、国脈大いに縮まり、程なく甲冑が必要になるだろう、と予言した。戦乱になるだろうとの意味である。
 しかし、徂徠の予言は当たらなかった。
 徳川の太平はまだ続いたのである。

 それは残された弟子たちの間に徂徠学に対する懐疑を生んだ。
 聖人が生んだ礼楽刑政がなされていないにもかかわらず、日本が太平であるとはどういうことか。当初、日本は聖人が出現する以前の未開状態なのだと考えた弟子の一人服部南郭であったが、この結論にはやはり無理があり、結局のところ、日本人は中華の人に比べて人柄がよい、という結論に落ち着いた。
 だから彼は政治的関心を棄て、詩文の世界に生きる道を選んだ。

 徂徠の高弟太宰春台に学び、南郭とも交際した賀茂真淵はこの結論を受け継いだ。その結果、徂徠学の方法論はこの、日本人はシナ人より人柄がよい、という認識とともに国学へと流れ込んでいくのである。

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