西郷隆盛

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zoom RSS 犬公方・徳川綱吉の仁政 (「江戸期の学問の大河」その五)

<<   作成日時 : 2016/06/16 08:22   >>

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 伊藤仁斎(寛永4年から宝永2年【1627−1705】)の思索が最も充実した時期は、「犬公方」こと、五代将軍徳川綱吉の治世(延宝8年から宝永6年まで在職【1680―1709】)に大きく重なる。
 実は、江戸にいるこの特異な天下人は、仁斎と同じ観点から、すなわち仁義、慈愛の観点から天下を変えようと大胆な改革に臨もうとしていたのである。

 綱吉は自ら家臣を集めて四書五経を講ずるほどの学者将軍であったが「生類憐みの令」ですこぶる評判が悪い。この評判の悪さは現職中からであった。もちろん、将軍家の勢威の最盛期であったから、面を冒して諌めるものは少なかく、あの反骨にして豪邁な光圀でさえ揶揄する程度であった。
 そこで陰口となるわけで、史料の多くがそれで蔽い尽くされてしまったが、実は名君であったとの説がある。以下の記述は概ね山室恭子『黄門さまと犬公方』(文春新書)による。

 綱吉が生類憐みの令を敷いた理由はいたって明快で、法令中の表現では「人々仁心も出来候様」「人々心より慈悲の志のおこり候様」に、とのことであった。
 諸役人への訓戒からは、世を治めるためであり、下々まで仁心が行きわたれば、曲がったことをせず、お上からがみがみ言わなくとも、自ずとよく治まるようになる、との綱吉の深慮が浮かび上がってくる。

 腹心であった柳沢吉保への訓戒には大要次のようなことが書かれてある。
仏教は慈悲をもっぱらとし、儒学は仁愛を求め、勧善懲悪という点で車の両輪である。しかし、仏教者は出家して世俗を離れ、儒者は禽獣を平気で食して、万物の命を害することを気にも留めず、世の中不仁にして、夷狄の習俗のようなありさまである。儒仏を学ぶ者はその根本を見失ってはならない。
 生類憐みの令は、この意識改革の一環なのである。

 柳沢の日記によれば、彼はその生涯において五十八回も柳沢邸を訪れて、『大学』を除く四書、すなわち『論語』『孟子』『中庸』を講じた。とりわけ『中庸』を重視していたようで、彼のこだわりが窺える。別の老中の邸では『大学』も講じているから、何かしっかりした意図を持って、書籍を選択し、講義を行っていたのであろう。
 生類憐みの令を発布して六年後の元禄四年、綱吉は湯島に聖堂を建て、諸役人に学問を奨励した。ここで行われた孔子を祀る釈奠の祭にも自ら出席している。 この頃から綱吉の学問熱は高じ、江戸城内では大名や近臣を集めて、『易経』の講義を何と二百四十回も行った。
 この取り組み方は尋常ではない。それもこれも天下の仕置きのためであった。

 彼は聖人の道の教育者にして実践者という、それまでの、いやそれ以後も含めて、唯一例外的な将軍なのである。役人には儒学の書籍を以て、また民には生き物に対する接し方を通じて、聖人の道を教えようとした。彼はその治世の後半、大火や天災など、不幸に何度も見舞われながらも初志を曲げなかった。

 彼はその一貫した精神から、数々の善政、特に福祉面での善政を行った。生類憐みの令はその内の一つであって、その在職中継続的に発布され、その中には行き過ぎも、迷走もあったが、町人で処罰された例は極めて少なく、むしろ彼らの模範として武士階級が厳しく罰せられたのである。
 これは当然で、戦国の風をもっとも象徴する存在こそ武士に他ならないからである。家康は武家諸法度で文武両道という箍を嵌めようとしたことを忘れてはならない。
 それにしても行き過ぎではないかと感じる方には、綱吉が問題視した当時の蛮風を説明しておく必要があるだろう。当時はまだ戦国時代の殺伐とした風が残っていて、人々は容易に刀を抜き、人を傷つけ、殺した。主人が、刀の試し切りも兼ねて、奉公人を手打ちにすることもよくあったという。一月に二三度は近隣で行われていた、との証言もある。
 何と言っても、義公こと、黄門様でさえ、若い頃は不良仲間にからかわれて、近くに寝ていた非人の一人を引っ張り出して、斬り棄てるという不義、不仁をなしたこともあったのである。
 しかし、綱吉以後この蛮風はぱたりとやんだ。
 少なくとも、綱吉はその素志の一部は達成したのである。
 しかも、それは通常ではなしえない、戦国の余風を一掃するという画期的なものであったのだ。それは神祖家康の政策のある部分、それも重大かつ根本的な部分を拡張させるものであったといっていいだろう。


 綱吉は本来なら将軍にはなれない人間であった。いやそれどころか、徳川将軍家は四代家綱で途切れ、鎌倉時代、源頼朝の子孫が三代実朝で途絶え、四代目より宮将軍を奉じたのと同様、京の宮家から将軍を迎える寸前まで行ったらしい。 
 幕府公式の歴史書『徳川実紀』は綱吉就任時の次のような風聞を伝えている。
 家綱が跡継ぎのないまま危篤状態に陥った際、時の大老酒井忠清は鎌倉時代、三代将軍実朝が跡継ぎを残さず暗殺された際、京都から将軍を迎えた先例に倣って、有栖川宮を迎えるよう主張した。北条氏が執権政治を行ったように、自らの権勢基盤を磐石のものにしようとの下心からの主張だったらしい。
 大老は「下馬将軍」の異名を持つ権勢家であり、逆らう者はなかったが、ただ一人、老中堀田正俊のみが強く異を唱え、正論を吐くことで皆を服させたという。
 病床の家綱は堀田から報告を受けると、大老以下の退朝を命じた。その後、堀田のみが御前に召され、跡継ぎは弟の綱吉に、との遺言が伝えられた。これを受けて、直ちに綱吉が登城、拝謁し、将軍職を継ぐべき旨が伝えられた。大老らが翌日登城した時にはすべてが決していたのである。

 事実、綱吉は将軍就任後、酒井忠清を失脚させ、彼の死後も執拗に酒井家を虐待しているから、彼を心底恨んだのだろう。彼のような徳川家を凌ぐ権勢を持つ存在を許さぬためか、将軍就任の功労者であるばかりか、徳川の天下を守ったといっても過言ではない堀田正俊が、大老として権勢を身にまといつつあったときに起きた、城内で発狂した少老に斬殺されるという不幸な事件を奇貨として、堀田家まで執拗に没落せしめている。代わりに側用人を置いて、人材を登用し、独裁政治の基礎を築いた。この側用人制度が学者を天下の仕置きに登用する道を拓いたのであり、綱吉の政治を非難した新井白石でさえ、この制度の恩恵を蒙ることとなった。

 思いもよらず他家や分家から養子となって本家を継いだ者は、正統性に欠ける分、より本家の人間としての立派な振る舞いを自らに課す例が多い。綱吉の場合も同様で、将軍就任の経緯からも、おそらく、いわば天命のようなものを感じていたのであろう。徳川家本来の政道を実施しようとの意志が強く存在したように思われる。
 そのためにも、偉大な祖宗の事跡を知る必要があり、天和三年(一六八三)、林信篤や木下順庵に命じ、家々に伝わる記録類を収集し、貞享三年(一六八六)、『武徳大成記』として完成させた。また二代将軍秀忠の事跡も『東武実録』としてまとめさせている。
 当然、家康の天下人としての精神には最も多大な関心を寄せていたはずだ。彼が儒書、なかんづく四書の講義に熱心だったのも、家康の精神がどこにあったのかを古記録から熟知していて、それを自らに課すとともに、実務を担っている役人に徹底的に叩き込むつもりだったのだろう。

 そして、それは凡俗の眼には見えにくい形で大きな成果を挙げたのである。

 綱吉はそれ至徳というべきか。
 確かに、民得て称することなし、だ 。

 名君であったかどうかはともかく、長い年月を経て、彼の評価は回復されつつある。

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