西郷隆盛

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zoom RSS 伊藤仁斎の国体観 (「江戸期の学問の大河」その四)

<<   作成日時 : 2016/06/10 15:55   >>

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 朱子学に対する批判から興ったいわゆる陽明学への傾倒から、林家から異端視されるに至った人物として、「近江聖人」こと中江藤樹や熊沢蕃山がいる。彼らは自立的な学問の道を切り拓いた人たちであるが、より徹底して、後世に大きな影響を与えた人物として、ここでは伊藤仁斎を取り上げたい。
 
 仁斎は京都の材木商の息子で、終生、京都を離れず、市井にあって、京大坂を中心とする三千人を超える門弟を育てながら、学者として身を立てた。
 小堀圭一郎氏は彼を「我国で最初の職業的学者」「日本型アカデメイアと呼ぶべき学問集団の創始者」と評している。

 仁斎の古義学とは、後世の注釈に頼らず、対象となる原典をそのまま読み込むという、当時としては画期的な方法論で、四書、特に『論語』『孟子』が重要視された。彼は『論語』『孟子』を五十年かけて熟読玩味、あるいは熟読精思して、朱子の注釈に含まれる仏教や老荘思想からの不純物を取り除き、注釈『論語古義』『孟子古義』を著した。
 特に『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と評したのは有名であるが、それは『論語』、あるいはそこに記録された孔子という人物に対する絶対的な信頼を前提として、これを実際に孔子の謦咳に接しているかのように感じられるまで読み込み、その教えを日常生活に実践応用した経験から来る、血の通った評語なのであった。

 彼は、世を静態的に捉えて、すべてを「理」に還元する朱子一流の合理主義を否定し、生活体験から人間を社会的な存在と捉え、世を動態的な活物と見た。
 だから「道」という言葉は次のように定義される。

「道はなお路のごとし、人の往来するゆえんなり。故におよそ物の通行するゆえんの者、みなこれを名づけて、道と曰う。」

 「道」とは人間の社会的交際を中心とする物事の出会いと交流の場なのである。

 
 彼はその名が表すように、「仁」という徳目を、「愛」の精神ということで、最も重んじたが、それは通常の社会生活における具体的な人間関係に適用される時、例えば君臣の関係においては「義」、父子の関係においては「親」、夫婦関係においては「別」、兄弟関係においては「敍」、朋友の関係においては「信」となって表れるとした。いわゆる五倫であるが、彼がその中で最も重んじたのが君臣間の「愛」である「義」であった。

 彼は「仁義」を「実に道徳の大端にして、万善の総脳」であり、「智」と「礼」はここから出ずるとし、「仁」と「義」が互いに補完しあってはじめて人道は全うする事ができるとしている。

 では、仁斎は士が仁義を傾けつくすべき君主を誰と見ていたかといえば、四十六歳の時に熊本の細川侯からの招聘を断り、京都に住み続け、門弟が、身分を問わず、日本全国六十余州のほとんどすべてに亘っていたことを思えば、おのずと明らかであろう。
 彼は六十四歳の時に初めて京を出て、大坂に遊び、当時仁徳天皇の皇居跡と伝えられた高津の神社を訪れて、その荒廃を嘆く一文を草している。

 彼は『論語古義』の中で次のような趣旨のことを述べている。仁義に基づいて政治を行えば王朝は長く続くものであるが、日本では神武天皇の建国以来、皇統が途絶えたことはない。これはシナ王朝の及ばぬ点である。

 ここに民間学者による国体論の萌芽をみることもできよう。
 彼は『論語』『孟子』の研究、および生活への実践に人生を奉げた人物だが、決してシナ崇拝者ではなかった。彼の邸宅にはシナで「海棠」と表される一もとの江戸桜が植えられてあり、自ら「棠隠居士」あるいは「桜隠」と号し、次の和歌を詠んでいる。

「世の中を いとふとなしに おのづから 桜が本の かくれがのいほ」

京の市井に陸沈した隠君子であったが、その心はやはり、後の本居宣長が言うところの大和心で支えられていたといっていい。

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