西郷隆盛

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zoom RSS 大東亜戦争と「宋襄の仁」

<<   作成日時 : 2016/06/08 15:51   >>

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「端的に言えば、大東亜戦争は罪悪なのではなく、失敗だった」

保守思想家の福田恒存はそう言った。

 大東亜戦争の道義性についてはすでに触れたが、一方で、当時の世界が、列強が生き残りを懸けて合従連衡を行い、サバイバルを展開する、いわば戦国時代であった、という見方をするならば、日本は降伏した以上、敗北したわけだから、戦略的には過ちがあったということになる。
 確かにあれだけの人的・物的損害を出した以上、自存自衛の戦争目的という点から言って、戦略的には失敗があったと認めざるをえないだろう。
 この部分には確かに反省があってしかるべきである。
 もちろん、それは自存自衛の問題として同じ過ちを犯さないという意味においてである。
 
 福田恒存は先に引用した部分に続けて「失敗とわかっていなければならぬ戦争を起こした事に過ちがあったのに過ぎない」と言っているが、私が言う過ちとはその意味においてではない。
 というのは、戦略次第では、勝てるとまでは言わなくとも、少なくとも負けずに済む戦争だったと思っているからだ。
 福田氏の発言は、歴史的惨敗を喫したという後知恵から来る発言ではなかったか。

 同じ後知恵で言うなら、アメリカ政府は何が何でも日本と戦争をしてこれを叩き潰す腹づもりだったのであり(その動機の一つが「人種的憎悪」にあったことは前回触れた)、狡猾な罠を張り巡らしつつあったのだから、イニシアティブを握っていたのは、日本ではなく、明らかにアメリカであった。
 日本は政治的に守勢に立たされていたのであり、「戦争を起こした」という自発的表現が適当であったとは思われないのである。

 二・二六事件以降、政治家は軍部に対するシヴィリアン・コントロールを放棄していた。
 なぜなら、予算がなければ軍は莫大な人的・物的財産を消費する戦争など出来ない。
 その予算を握っているのは帝国議会であり、だから、軍の統制は明らかに政治の責任ということになるのである。
 三島由紀夫が「檄文」で言ったように、そもそもシヴィリアン・コントロールとは「軍政に関する財政上のコントロール」を指す言葉なのである。

 日本政府は基本的に英米との協調路線を取っていたが、満州事変以降、国民は軍部の行動を熱烈に支持し、これは米英との対立を促した。
 こうした中で、軍の予算を握っている政治こそが、本来の役割である意思決定機能を果さなければならなかったが、当時の政治家はそれを果しえなかった。国民世論と結びついた軍部と対立してまで、政治家がその所信を貫徹しようと思えば、テロを覚悟しなければならなかったのである。

 しからずんば妥協、協調、迎合。
 これがうまく行かなかった。
 そういった政治の意思決定能力の喪失が、日本に次々と襲い掛かる国際的難問に対症療法的にしか対処できなかった要因である。
 それがジリ貧となった段階での決起へと繋がった。
 ここにおいてようやく、戦い方はともかく、戦うという一点において、政治的意思は統一されたのであって、「失敗とわかっていなければならぬ戦争を起こした」というような主体的なものではなかったのである。
 むしろ政治的主体性を取り戻すための戦争であったといえるだろう。

 早い段階で、アメリカの首脳が人種的憎悪による日本人種の絶滅という狂気の虜になっている、と日本の首脳陣が達観していたならともかく、当時の日本人は問題がそこまで深刻なものであるとまで思っていなかったし、その狂気の結実である、B29による民間人の無差別殺戮や二つの原爆投下という、ホロコーストを経験した今となっても、その深刻さを受け止め切れていない日本人の国際政治に対する甘さを見れば、誰が先人達の過ちを咎めることが出来るというのか。
 その甘さが、半世紀以上前、アメリカという大津波に国土を洗われ、今だにその傷が回復せぬままに、今度は米中の両方からの津波に国土を再び根こそぎに洗われかねない状況となって現れているのである。

 今、東北沖大地震で発生した大津波は東北の太平洋沿岸部を洗って、福島第一原発の問題となって日本列島を揺さぶっている。
 私は日本人を襲っているこの問題に、戦後日本というものが音を立てて崩壊していくような感覚を持っているのであるが、これが次の津波、すなわち太平洋の向こうから、そして、日本海および東シナ海の向こうからの津波を誘発することを懸念しているのである。
 いい気になって先人を貶めている場合ではない。

 先人に輪をかけて認識が甘い上に、国難に立ち向かう気概も弱い現代の日本人が、同等か、あるいはそれ以上に苛酷な国際環境を果敢に乗り切ろうとした先人をあざ笑う図は滑稽以外の何物でもないのである。

 
 昔も今も政治が本質的に命懸けの仕事であることに変わりがない。
 今でも政治家が、一切その気がなくとも、ポーズだけであっても、「命懸けで取り組む所存であります」とか、「政治生命を懸けて」とか言うのはその名残だろう。
 現代においてはそのような政治家の発言は、ルーピーと呼ばれた総理大臣でさえ言えるのだから、紙切れ一枚の価値もないが、その代償として実際の政治がまったく駄目になってしまっているのだ。

 もちろん今をときめく政治家に、そのような覚悟、責任感を本気で持っている人などほとんど皆無だろう。この発言を受ける有権者も、本当に彼らが命懸けであるなどと思っていないのではないか。 
 政治が馴れ合いのお遊びになってしまっている。
 ここに戦後日本の悲喜劇は胚胎している。

 そんな遊びを繰り返す子供たちが、真剣だった戦前の日本を安易に断罪しているのだから始末が悪いのである。

 
 戦前の日本は出来るかぎり米英に妥協し、これ以上譲歩すれば、戦わずして敗れるという、ぎりぎりの所まで追い詰められた。
 つまり、開戦は、勝ちを見込めるぎりぎりのところでなされたのであり、後知恵で、「失敗とわかっていなければならぬ戦争」と切り捨ててよいものなのだろうか。そんなことを言えば、日露戦争だって決して開戦すべき戦争ではなかったということになるだろう。
 問題は、そうでありながら、開戦後、見込んだはずの勝つための数少ない戦略を日本が選択できなかったというところにあるのではなかろうか。

 とはいえ、私は福田恒存の思想に精しいわけではなく、たまたま知っていた先の言葉を叩き台にして大東亜戦争を論ったに過ぎないので、その辺のところはご理解いただきたい。 



 「えんだんじ」先生の『大東亜戦争は、アメリカが悪い』は大東亜戦争勃発までの過程を追った著作であるから、開戦後のことについては必要最小限しか触れていないが、少なくとも開戦に至るまでの過程における外交的失敗については触れている。
 しかも、それは常識に基づいた、かなり鋭い視点である。

第二十章『日独伊三国同盟』

 第二節「日独伊三国同盟は正しい選択であったか」

 が、それである。

 ここで先生は、当時の日本の選択肢として、

一、米英と仲よくする。
二、ソ連と仲よくする。
三、独伊と仲よくする。
四、孤立外交を貫く。

 の四つを挙げ、最上の策は一であるが、事実上そういった選択肢がありえなかったことを考察している。
 理由は満州をめぐる政策で日米間における政治的妥協が限りなく不可能にちかかったこと。後知恵として、アメリカがすでに日本を叩き潰す腹づもりであったことを挙げている。これは客観的に見てその通りである。
 この策を成しうるとすればそれは天才的な手腕を有する英雄だけであろう。
 しかし、そのような人物がその時代にいるとは限らない。
 
 四の孤立外交については、日本が物資を自給自足できる国でなく、現実的に、物資を依存している相手のアメリカが、石油の禁輸をちらつかせている以上、無理であったとする。後知恵となるが、日本を戦争に踏み切らせたのが、米英による石油の禁輸にあったことを思えば、これもその通りである。

 そこで先生は現実的な選択肢として二と三を挙げる。
 すなわちソ連および独伊との合従である。
 これに着眼し、推進したのが外交官の松岡洋介であった。

 すでにドイツは戦争を遂行していて、第二次欧州大戦は始まっていたから、これとの同盟には不安定要素があった。
 欧州戦線におけるドイツの勝敗という不安定要素である。
 しかし緒戦におけるドイツの快進撃は、そういった不安定要素に対する配慮を疎かなものにしてしまったのである。
 
 そこにソ連との同盟を加えるわけであるが、それを可能にするには前提条件があった。当時独ソ間で結ばれていた不可侵条約である。
 日ソの合従はその前提の上に成り立って初めてアメリカに対する戦略性を帯びてくるのである。

 この条件下で、松岡洋介は日独伊三国同盟を結び、帰路モスクワに赴いてスターリンと不可侵条約を結んできた。
 「えんだんじ」先生は常識的に判断して、この戦略構想自体は間違ってはいなかったとしているが、私も松岡のこの構想は、地政学的に見て、間違いではなかったと思う。
 
 しかし、戦国時代であった当時の国際情勢はまったく先が読めないものであった。
 運の悪いことに、構想の前提条件は、日ソ中立条約締結後わずか二ヵ月後の昭和十六年六月二十二日、独ソ開戦であっけなく崩れてしまったのである。
 しかし、構想者である松岡は、当時まだ十分展開されていなかったが、地政学というものをよく理解していたらしい。
 松岡外相は、昭和天皇に、速やかにソ連を討つことを建言したのである。

 『大東亜戦争は、アメリカが悪い』によれば、昭和天皇は「これは明らかに国際信義を無視するもので、こんな大臣困るから私は近衛に松岡を罷めるように言った」と後に語られたそうである。また「彼の言を用いなかったは手柄であった」とも語られたとのことである。
 つまり、松岡のこの献策を国際信義を理由に退けられたのである。

 昭和天皇は戦国時代を果敢に生きようとした日本に道徳的規制をかけられたのだ。

 「えんだんじ」先生はこの事について、

「戦前の昭和天皇の最良の決断は、二・二六事件のとき、陸軍が犯人に同情的であったのに、終始一貫犯人を逆賊扱いしたことです。最悪の決断は、松岡外相の提案を拒否してしまったことです。」

 と、勇気ある批判をされている。

 昭和天皇は、英国流の立憲君主として、自己を厳しく律しておられたが、このように天皇のご意見が近衛首相に伝われば、当然影響力を行使せずには置かない。
 昭和天皇は後々まで、二・二六事件および終戦のご聖断のときに、自ら立憲君主としての戒めを破られたことを気にされていたが、天皇のご意向が戦前・戦中の日本の政治を左右したのは、何もこの二つのときばかりではなかったのである。

 戦略的見地から見て、日独伊三国同盟を結んでしまっている以上、昭和天皇のご判断の誤りは明らかだが、米英との協調を希望しておられた昭和天皇がどのような腹案をお持ちになられていたかよくわからない。
 少なくとも昭和天皇は道義の問題を以てこれにお応えになられた。

 徳を以て怨みに報えば、何を以て徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。

(『論語』「憲問」要約)

 孔夫子はそういうのである。

 徳を以て人種的憎悪という怨みに報いるとすれば、何を以て徳に報いるというのか。
 直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報いるということでなければならない。
 
 大東亜戦争の持つ意義は、アメリカの日本人に対する人種的憎悪に直き態度で報いようとした。
 そういうことではなかったか。

 これも後知恵ということになるが、ソ連は言わずもがな、英米の不義(昭和天皇の意識にあったのは英米を中心とする国際社会に対する信義にあったと思われる)を思えば、合従連衡の世界における戦略の問題に、信義という徳義上の問題を以てお応えになられた昭和天皇が、その面において「えんだんじ」先生の言うように、最悪の判断をされた、と受け止めるなら、日本の敗戦とそれに続く占領による伝統の破壊は、故事にある「宋襄の仁」であったということになる。

 「宋襄の仁」とは、道義を重んずる宋の襄公が、義憤から大国楚に泓水のほとりで決戦を挑んだが、道義にこだわって勝機を逸したために大敗を喫して、軍門に下らざるをえなかった、という故事である。

 (「泓水の戦い」ウィキ解説; http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%93%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 「宋襄の仁」について次のような記事もある。http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/soujo.html

 つまり、大東亜戦争とは「泓水の戦い」であったということであり、昭和天皇は宋の襄公ということになる。

 「えんだんじ」先生の昭和天皇批判はそういうことである。


 私はもう一つ別の視点から大東亜戦争を見ているが、ここから先は、書評の枠を外れて、私の大東亜戦争観、天皇観、ひいては国体観の話になってくるので、また別の機会に譲りたいと思う。

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