西郷隆盛

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zoom RSS 水戸学の源流 光圀の屈折 (「江戸期の学問の大河」その三)

<<   作成日時 : 2016/05/30 16:25   >>

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 全てが全てというわけではないが、シナの学問である朱子学に傾倒した儒者が神道的なものと習合していくのは不思議といえば不思議である。

 朱子は文弱で知られた宋朝の学者。
 宋王朝は満州地方より興った金の圧迫を受け、南方に逼塞し(南宋)、ついでモンゴル地方より興った元に攻め滅ぼされた王朝だった。文化の中心、世界の中心である中華が野蛮を意味する夷狄に取って代わられる危機に脅えていた時代に発展した学問だった。朱子は大義名分重んじ、王朝の正統性ということにこだわらざるを得なかった。
その結果、彼は「簒臣」「賊后」「夷狄」を厳しく斥ける。「簒臣」とは帝位を簒奪した家臣、「賊后」とは則天武后のような女帝(皇后は、シナにおいては、夫婦別あり、すなわち別姓である)、「夷狄」とは中華帝国周辺の野蛮な民族のことだ。これらは皇帝の姓が易わることになるから易姓革命である。
朱子はこれを認めないと言ったわけだが、しかし、そんな事を言えば、常に湯武放伐論に基づく易姓革命で王朝を交代してきたシナにおいて、正統な王朝などはかつて存在しなかったことになってしまう。現に、江戸時代初期にシナ大陸を支配したのは明朝を倒した清朝であったが、これは満州地方の女真族、すなわち中華から見ての北狄(北方の蛮族)にほかならない。つまり正統な王朝ではないということだ。

 そこで、朱子学者・山鹿素行の『中朝事実』のように、万世一系の天皇を戴く日本こそ中華であり、中国あるいは中朝と呼ばれるべきである、と主張するものが現われたのである。
 儒者のシナへの失望は自国への関心と向かっていった。
 そもそも儒教は孔子以来、温故知新的であって先王の道を重んじる。
 日本において天や先王に当たる存在は何か。
 儒者に神道や皇室の存在がクローズアップされたのは自然の流れであっただろう。


 そのことを前提に、次に取り上げたいのは、徳川御三家の一つ、水戸徳川家に生まれたいわゆる水戸学である。

 水戸徳川家の家祖は家康の十一男頼房である。その三男がいわゆる水戸黄門様として知られる光圀である。
 光圀はその死後「義公」と諡されたことからもわかるように、朱子学に傾倒した人物である。黄門伝説では、十八歳の時に『史記』「伯夷・叔斉伝」を読んで感銘を受け、それまでの非行を改めたとされる。
 伯夷・叔斉とは殷の紂王の家臣で、主君・紂王を討って殷の天下を奪った周の禄を食むのを潔しとせず、山に入り、蕨だけを食べて餓死したという伝説的な義人である。

 光圀の義の実践は徹底していて、父頼房が死んで跡を継ぐとすぐに、讃岐高松藩祖となっていた長兄・松平頼重の実子を養子として世子として届け出た。光圀の実子は代って頼重の養子となり、高松松平家を継ぐこととなった。これは、長男三男の間で王位を譲り合った伯夷叔斉の伝説に倣ったとされる。

 光圀は頼房がまだ健在であった明暦三年(一六五七)、三〇歳の時に日本史の編纂という大事業に着手した。
 たかが歴史書の編纂というなかれ。
 当時歴史の編纂は莫大な資金と人材を必要とする大事業であった。水戸藩の石高は尾張・紀州の約半分の二十八万石であったが、その内八万石を修史事業に割いたといわれている。
 水戸藩は藩財政を傾けてまで、この事業を推進し、その作業は光圀の死後も続けられて、完成を見たのは、何と江戸時代も終わり、明治も三十九年(一九〇六)になってからのことなのである。
 これには御三家の一つ、尾張徳川家の家祖である義直(家康の九男)が同じく儒学を好み、尊王思想を持っていて、国史の編纂に乗り出し、正保三年(一六四六年)に『類従日本紀』としてこれを完成させたことの影響もあったことだろう。また本家徳川家の元で林羅山・鵞峯父子が進めていた国史『本朝通鑑』の編纂を意識したという面もあったであろう。林父子と頼房・光圀父子の間には親交があった。

 いずれにしても徳川家康の学問好きが次代に受け継がれていたのである。まさに家康がその後半生において学び、そこから得た徳が源泉となって、川となって流れ出たのである。

 
 光圀でもう一つ特筆すべきは、満州族によって滅ぼされた明朝の遺臣で朱子学者の朱舜水に師事したことであろう。光圀と朱舜水は日本の歴史の中に忠臣を探し、楠木正成こそそれであるとした。
 光圀は「助さん」のモデルとなった家臣の佐々介三郎宗淳に命じて、楠公の戦没地に建碑を行わせている。碑の表面には光圀の字で「嗚呼忠臣楠子之墓」、裏面には朱舜水の賛を刻んで、楠公祭祀のさきがけとなった。それまで天才軍略家として知られていた楠木正成だが、この再発見によって、シナの代表的忠臣の一人である諸葛孔明に匹敵する忠臣との評価を得るようになったのである。

 また光圀の功績として、『万葉集』の注釈が挙げられる。光圀は仏典漢籍に通じた僧契沖に依頼して『万葉代匠記』を提出せしめた。こちらは後に興る国学方面での功績である。



 光圀は若い頃、不良少年であった。彼がぐれた原因は、どうも兄を差し置いて藩主の地位に継いだことをあったらしい。光圀伝説では彼の優れた器量が幼少にもかかわらず認められたから、ということになっているが、実際は、当時、三代将軍家光に跡継ぎがなく、御三家の内から将軍を出すということになると、家格の一番低い水戸徳川家の跡継ぎたる資格を持つ光圀の兄・頼重が最年長で、家格が上である尾張・紀州を凌いでしまうことになる、という事情があったらしい。
 それに遠慮した父頼房が尾張・紀州の世子より年少となる三男の光圀を世子として届け出た。その代り、頼重の不運を憐れみ、その子を光圀の養子とし、次代は本来の長兄の血筋に戻すこととした。
 つまり、徳川家内部の継承問題、秩序感覚、政治力学が光圀の屈折を生んだらしいのである。

 このことからも、一部で囁かれている、家康が徳川家保全の深謀遠慮から、水戸徳川家に、もし朝幕間に万が一のことがあった場合、朝廷に味方せよ、との内命を与えていたとの説は成り立たない。家光に跡継ぎが生まれなかった時点では、水戸家から将軍を出す可能性があったからこそ、頼房は政治的配慮から頼重を他家の養子となし光圀を世子とせざるをえなかったのであるから。

 また家康は将軍秀忠の娘和子を後水尾天皇の女御として入内させようとして、その死後、実現しているから、豊臣秀頼に秀忠の娘千姫を娶わせたように、婚姻政策を通じて朝廷の懐柔を図ろうとしたように思われる。
 ちなみに次代明正天皇の母はこの和子で、唯一徳川将軍家を外戚に持つ天皇となった。すでに触れた家康晩年の思想からも、彼が水戸藩主に本家を継がせず、万一朝幕対立の際は朝廷に味方せよ、とまで命じていたとは思えない。つまり水戸徳川家の勤皇の藩風は光圀の個性に負うところが大きい、ということだ。

 いわゆる「最後の将軍」徳川慶喜は、御三卿の一つ、一橋家から出た将軍だが、元は水戸徳川家の出身、尊皇攘夷を唱えて幕末活躍した烈公こと水戸藩主徳川斉昭の子である。
 その彼の回想『昔夢会筆記』に、二十歳の元旦における父からの訓戒としてある「…もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府には反(そむ)くとも、朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これは義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」という遺訓は、そのまま素直に光圀以来のものと受け取ればよいのである。

 光圀の事跡を伝える『桃源遺事』という書物には、光圀がある時期より老後にいたるまで、毎年元旦早朝に直垂を着し、京都の方向を遥拝していたこと、また近臣には折に触れ、わが主君は天子(天皇)なり、今将軍はわが宗室(本家)なり、と語っていたことが記されている。つまり、どちらかといえば、天皇は忠の対象、将軍は孝の対象、ということだ。

 光圀は兄を尊敬していたがゆえに、その屈折も大きかった。彼の屈折した感情を止揚するきっかけを、十八歳の時の『史記』「伯夷叔斉伝」との出会いは与えたのだと思う。藩政の必要上からも、天下公認の学問である朱子学へののめり込みは好都合であっただろう。

 もう一つ重要なのは、彼が二十七歳の時(承応三年・一六五四)、前関白近衛信尋の娘尋子を正室に迎えたことであろう。実は信尋は後陽成天皇の子であり、次代後水尾天皇の同母弟であった。つまり尋子は後陽成天皇の外孫であり、後水尾天皇の姪っ子だったのである。この親近感が、朱子学へ、修史事業へ、尊王へと光圀の情熱を駆り立てていくことになるが、その元となった彼の心の屈折は、父頼房の心の屈折であったかもしれない。というのは、これらの軌道は、頼房の存命中すでに定められていたからである。

「月は瑞龍の雲に隠ると雖も、光は暫く西山の峯に留まる」

 彼の隠居の地、瑞龍寺に建てられた碑に刻まれた漢詩である。

 確かに光圀の心の置くには屈折があったかもしれない。が、彼は学問の力を借りて、志をまっすぐ立て直した。そのことによって、彼が雲隠れの後も、余光は、暫くどころか、維新の源流となって、煌々と後世を照らしたのである。

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