西郷隆盛

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zoom RSS 徳川家康の側近が遺した思想書 (「江戸期の学問の大河」その二)

<<   作成日時 : 2016/05/24 16:49   >>

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 江戸時代初期には、家康のブレーンが著したとされる書物が、世間に流布した。豊国廟の社僧にして吉田神道との関係も深い神龍院梵舜が著したと推定される『心学五倫書』、藤原惺窩(梵舜の実兄・吉田兼見の猶子であった)が著したとされる『仮名性理』、家康の政治面における顧問であった本田佐渡守正信が二代将軍秀忠の求めに応じて著したとされる『本佐録』などである(『本佐録』については同内容で藤原惺窩が著したとされる文書も存在する)。

 これらは当時浸透しつつあったキリスト教における超越的存在デウスに対抗しうるわが文明内の対抗概念として、万物の主宰者としての『天道』を闡明した書物である。これらは明らかに、イエズス会の日本人修道士として活躍し、林羅山との論争を経て、後に『破提宇子(破デウス)』を著して、キリスト教を排撃するに至った不干斎ハビアンのキリスト教義解説書『妙貞問答』をキリスト教批判のたたき台にしているが、特に『心学五倫書』『仮名性理』は『論語』の一節の引用も見られ、朱子学的世界観が価値基軸となっている。

 中でも『本佐録』は、惺窩の孫弟子で五代将軍綱吉の侍講を務めた木下順庵が常々「王道の最上なり」と感心していたと、弟子の新井白石が回想していて、白石自身もまた、師のこの評価を引き継いで『本佐録孝』を著し、天下第一の書ではないか、と最高の評価を下していた。
 『本佐録』の真の著者が誰か確証はないが、浪人して天下を放浪し、憂世の表も裏も知り尽くしてから、帰参して家康に仕え、天下のために尽くした本多正信のものとしても何ら不思議ではない思想がここでは述べられている。彼の名でこの書が伝わったことは、江戸幕府の創業の天下統治の理念を敷衍し、後世へ継承していく上で、影響も決して小さくなかったと思われる。

 本多正信がここで述べる「天道」とはつまり「堯舜の道」であり、家康と羅山の間で交わされた問答の内容と一致していて「四百余州の治も、この中の一字なり、堯舜の心もこの中の一字なり、中の一字すなわち天理なり」とその極意が述べられている。それが現実政治にいかに応用されるべきか、いかなる点に気をつけるべきか、老練な政治家の眼で実にきめ細かに論じられているのだ。
 そして、ここでもまた「天道の理」は、天照大神の掟を受けて天下を治めた神武天皇に結び付けられて古神道「惟神の道」と習合しているのである。「伊勢天照大神をば信ずべし、すなわち天理なり。道に叶いたる神なり」とのくだりもある。
 ではなぜ、この神の子孫である皇室が天下を失ったかといえば、日本では神武天皇が堯舜の掟を守って、代々天下を子孫に伝え、二千年に及んだが(皇紀に基づき、後白河法皇の御代までを言う)、仏教を取り入れて、これを神道としたため、道が次第に衰えて、程なく天下を失ってしまった、としている。
 ここから、後白河法皇の御代に幕府を開いた源頼朝以来の武家政治の時代に入るのだが、彼らには天道に悖るところがあったために数代で滅んできた。天は天下を治めるべき心持、器量を持つ人を選び、天道に則って日本の主を定める。だから、天下を持つ人は、身を端(ただ)し、心を誠にして、天下泰平に、万民安穏に、政を行えば天道に叶い、子孫は繁栄するだろう。

 本佐が秀忠に述べるところを要約するとこのようになる。
  
 この思想・歴史観は『心学五倫書』『仮名性理』からそのまま引き継いだものだ。
 以上のように、江戸幕府の創業である、家康及び側近が「天道」を奉じて推進した元和偃武事業そのものに、儒学が援用されていて、あるいはそのように伝わって、後世の儒者がその思想を建設的、批判的に展開しうる余地が用意されたのである。

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