西郷隆盛

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zoom RSS 徳の川の源流 (「江戸期の学問の大河」 その一)

<<   作成日時 : 2016/05/18 16:04   >>

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 政治学者渡辺浩氏の『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』によれば、「儒学は、人類がこれまで築いた、おそらく最強の体系的政治イデオロギーである」という。

氏は続ける。

「それは、孔子によって大成されて以後、他の諸思想潮流との抗争に徐々に勝利し、紀元前から二千年以上の永きにわたり、ほぼ一貫して、世界屈指の大帝国の正統思想として君臨した。そして、とりわけ近代に直接先立つ時期の東アジアにおいて、圧倒的な権威を持つ倫理哲学・政治哲学となっていた。徳川日本においても、儒学は知識人による政治思想史の展開の基軸をなし、『明治維新』にも重大な役割を果たした。」


 江戸時代とは徳川家が征夷大将軍として江戸を根拠地としながら日本全国を統治した時代である。その開祖徳川家康は豊臣秀吉亡き後、天下分け目の関が原の合戦の勝者となって、天下人として君臨した。彼はその前半生を武人として過ごし、かの武田信玄をして「海道一の弓取り」と言わしめるほどの武将にまで成長したが、一方で、彼は織田信長の同盟者として、また次代天下人である豊臣秀吉政権の重鎮として、長年にわたって、天下統治のあり方を横からずっと観察してきた。その彼が天下人になったとき、日本全国を統治するに当たって、歴史というものに、学問というものに着目したのである。

 彼の関心は儒教に限らず、漢籍全般、そして仏教や神道にまで及んでいた。特に帝王学の古典『貞観政要』を好み、『吾妻鏡』を好んで、武家政治の祖、源頼朝を模範としていた。

 家康の侍医板坂卜斎の日記『慶長年中卜斎記』によると、

 「家康公書籍を好せられ、南禅寺三長老・東福寺哲長老・外記局郎・水無瀬中納言・妙壽院(藤原惺窩)・学校(三要元佶)・兌長老(承兌)など、常々御咄(おはなし)成られ候故、学問御好、殊の外、文字御鍛錬と心得、不案内にて詩歌の会の儀式ありと承り候。根本、詩作・歌・連歌は御嫌いにて、論語・中庸・史記・漢書・六韜・三略・貞観政要、和本は延喜式・東鑑(吾妻鏡)なり。その外色々。大明(シナ)にては、高祖(漢の劉邦)寛仁大度を御褒め、唐の太宗・魏徴を御褒め、張良・韓信、太公望・文王・武王・周公、日本にては頼朝を常々御咄成られ候。」
 
 とのことであった。
 

 家康は駿府に隠居してから、これらの書物の印刷刊行に熱心で、しかも、それを天下のために自ら実践しようとの意欲が強く存在した。 
 晩年の彼の関心はいかに天下に太平をもたらすかという一点に絞られていたと言っても過言ではない。そこに至るまでの彼は、厳しい戦乱の時代に、幾たびも辛酸を嘗めされられながらもそれによく堪え、武家勢力の中では頂点を極めるに至った。それを支えたのは、その武勇にあった。

 しかし、天下を治めるにはそれだけでは十分ではない。
 それ以上のものが必要である。
 なぜなら、自分を超える力を持つものが現われればそれまでだからである。威服させるのみならず、信服、心服させる必要がある。
 そのため晩年の彼は、過去の天下人としての成功者から学ぶとともに、形而上の学問を修めた人物を重用した。西笑承兌しかり、金地院崇伝しかり、南光坊天海しかり、神龍院梵舜しかり、林羅山しかりである。
 豊臣家滅亡後、家康が次々と各界に発した法度類はそれらの研究が生かされたものであった。 
 
 儒者として独立した活動を行ったのは戦国時代の藤原惺窩をもって嚆矢とする。
 家康が惺窩に出会ったのは、朝鮮の役の際、肥前名護屋に滞在していた時の事。これを機会に、文禄二年(一五九三)、彼を江戸に招いて、『大学』を講じさせ、『貞観政要』を読ませた。さらに慶長五年(一六〇〇)、関が原の勝利者となって上洛した家康は惺窩を再び召したが、その際、禅僧である西笑承兌らと儒か仏かをめぐって論戦となったことがあった。また『漢書』(儒教的視点から書かれた漢の歴史書)『一七史』(南宋の儒者呂東莱の著)を読ませた。この時、惺窩は初めて道服というものを着て現われて、それまで禅宗に付属する学問であった儒学(宋学)の独立を公の場で示したのである。

 同じ頃、京において、朱子集注『論語』を講じて、門人を集めた若者がいた。
 これに、朝廷の伝統の立場から、難癖をつけたのが、大外記・明経博士の清原秀賢であった。清原家は清少納言を輩出した明法家の名門である。代々儒道を以て家業としてきた。いわば朝廷の儒学の伝統を頑なに守り続けてきた家系であったわけだが、その反面、一子相伝の秘法としてきたために、儒学の一般への普及を妨げてきたことにもなる。
 秀賢はこの若者の才を忌み、朝廷に訴えた。
 曰く、古より勅許がなければ、(朱子の)新注を講ずることはできない、朝廷でさえそうなのだから、地下においてはなおさらである、処罰して欲しい、と。
 時の武家伝奏はこのことを家康に伝えた。
 家康はこれを聞いて、講ずる者こそ奇特というべきである、訴えた者は小さきことをいうものかな、と笑った。秀賢はこれを伝え聞いて恥じ、再び訴えることはなかったという。若者はこれで堂々と儒学を、朱子学を講ずることができるようになったわけである。
 これは日本の儒学受容史における画期的事件で、民間に儒学が広がる大きな契機となる事件であった。伊藤仁斎や山崎闇斎など、後の京に多くの民間学者を輩出する素地を作ったことになる。

 慶長十年、家康はこの若者を召した。
 これがすでに惺窩に弟子入りをしていた、後の林羅山であった。
 その三年後、家康は羅山を退隠の地駿府に招き、屋敷を与えた。

 羅山が書き遺した書類をまとめた「羅山林先生文集」の中に、『論語』の一節や「中庸」「湯武放伐論」に関する家康の諮問に答えた記事が出てくる。これは慶長一七年(一六一二)頃のことで、大坂の陣の数年前のことだ。
 私は家康=腹黒・狸おやじ説を採らない。むしろ、『豊内記』にある次の家康評価の方が真をうがっていると思う。

「新田家康公は、生質美にして学を好み、…才智大にして慈仁深く、天より天下を与へ給へり。家康公徳多しと云へども、人を殺す事を好まず。是第一天道に叶ふ処也。」

 この家康評は、豊臣秀頼にその最期まで仕え、よき大将としての資格や因果の道理などを説き続けた高木仁右衛門入道宗夢が残したとされる
 
 さて、羅山の記すところによると家康との対話は大略つぎのようであったという。
 家康は『中庸』の句を引用して次のように言った。

「道は今も昔も行はれない。だから『中庸』に〔能くすべからず〕〔道はそれ行われざらんか〕と書かれている。それについて、卿はどう考えるか。」

羅山「道はきっと行われます。『中庸』に云うところは、孔子が時の君主が道に暗くて、道が行われないのを嘆いての言葉です。道は実現できないという意味ではありません。六経の表現に、この類は少なからずあります。『中庸』に限ったものではありません。」

家康「〔中〕とは何ぞや。」

羅山「〔中〕は捉え難いものです。一尺の〔中〕は一丈の〔中〕ではない。一座の〔中〕は一家の〔中〕ではない。一国の〔中〕は天下の〔中〕ではない。物事にはそれぞれ〔中〕というものがある。その〔理〕を得る者は必ず〔中〕である。だから初学の者が〔中〕を知らんと欲するならば、〔理〕を知らなければそれを得ることはできない。だから〔中は理のみ〕が古今の格言なのです。」

さらに羅山の発言。

「〔中〕は善なり。一毫の悪もない。物それぞれが〔理〕を得、事のすべてが義に適っていれば〔中〕なのです。善を善としてこれを用いて、悪を悪としてこれを去るのもまた〔中〕です。是非を知り、邪正を分かつのもまた〔中〕です。湯武は天の意に順(したが)い、人に応じて、未だかつて少しばかりの私欲もなかった。天下の人のために巨悪を除いたのです。だからこそ、湯武は〔中〕にして、〔権〕なのです。」云々。

 ここで説明が必要だろう。

 古代シナの夏王朝は桀王の代になって暴政を行い、湯王に討たれた。この湯王が開いた王朝が殷である。そして殷王朝は湯王の子孫・紂王の代になって暴政を行って、文王の子・武王に討たれた。この武王が開いた王朝が周である。
 この周王朝は武王の死後、子の成王があとを継いだが、幼少のため、武王の弟である周公旦がこれを輔佐し、夏・殷の制度を勘案して高度な礼楽制度を創り上げ繁栄した。この王朝の衰退期である春秋時代に、周公旦を聖人視し、その聖人の創始した礼楽文化の再興を夢見て活動した人物が孔子である。
 孔子より二百年後、さらに秩序が混乱した戦国時代に活動した孟子は、湯武の討伐を理論化して王朝交代の正当化を図った。曰く、暴政を行い民意が離れた桀・紂は天に見放された残賊の一夫であって、もはや天子ではない。天は民を救うため、民の中から有徳の士を選び出して、これに天下を与える。つまりその有徳の士は、天命を受けた天子として、残賊の一夫を討って、天下に君臨するのである。このような理屈により、臣下が君を討つという、湯王・武王の放伐(追放討伐)は正当化される。これがいわゆる湯武放伐論で、王朝交代で天子の姓が易わるから易姓革命とも言われる。これに対し、放伐を伴わない自発的な易姓革命が禅譲だ。シナと日本の国体を論じる上で重要な論だが、羅山もまた孟子と同じ立場に立って〔中〕を論じているのである。

 家康はさらに次のように質問している。

家康「湯武の征伐は〔権〕か。」

羅山「貴方は薬を好みます。薬で喩えて説明してみましょう。温を以て寒を治し、寒を以て熱を治して、その症状が治まるというのが通常のやり方です。熱を以て熱を治し、寒を以て寒を治す、これを反治といいます。これは人を活かすことが重要なのであって、非常時のやり方です。これが先人儒者の〔権〕の譬えです。湯武の討伐の目的は、天下を私物化するためではなく、ただ民を救うことにあったのです。」

家康「良医でなければ、反治による治癒は難しいだろう。恐らくは、人を殺してしまうだけだろう。」
 
羅山「そのとおりです。上が桀・紂のような賊ではなく、下が湯・武のような「中」を得た聖人でなければ、これは弑逆の大罪となって、天地間において許すことができない行為です。ただ天下の人心帰して君となり、帰さずして残賊の一夫となるのです。」

 二人の間では大略、以上のようなやり取りがあった。
家康は明らかに自ら『中庸』を学んでいて、羅山に不明な点を質しているのである。天下人として天下をいかに治めるかという意識がなければこのようなやり取りは成立しない。
 彼はこの問答を天下経営に生かした。

 物事それぞれの〔理〕を知り、〔中〕を行ったのが、仏教の各宗派に対する諸法度や「禁中並び公家諸法度」「武家諸法度」であっただろう。もちろんそこには天下の「中」など、より大きな観点からの「理」も加えられているだろう。
 また豊臣家に対しては、秀吉の遺言に従って、息子で将軍職を譲っている秀忠の娘千姫と娶わせて、義理の孫として、秀頼を決して粗略には扱わなかった。家康は秀頼の官位を昇進させ、しっかり後見している。通常時の〔権〕としては、孫として祖父に対する、あるいは子として将軍秀忠に対する孝行を、大名としては天下人に対する忠行を、この秀頼に求めることで豊臣家を、豊臣恩顧の大名たちを、関ヶ原以後の天下人たる徳川家を中心とする新しい秩序に服さしめ、治めようとしていたように思える。
 彼が好んだ人物でいえば、漢の高祖の寛仁大度、あるいは天下の三分の二を得てもなお殷に服従したという周の文王の徳も念頭にあったものと思われる。しかし、いよいよ兵を集め、兵糧を蓄えて、非常事態を醸成した大坂方に対しては、良医として反治、すなわち「権」を施して「中」を為さざるを得なかった。それが、豊臣家が滅亡にいたるまでの諸事件だった。天下に号令をかけて大坂に兵を集めた家康は自らを武王になぞらえていたであろう。
 家康の政治行動は、その学問の内容まで踏み込んで見なければ真意を把握することは難しいのである。

 家康は、豊臣家の滅亡を見て、主君にして立身出世の恩人でもある織田信長の次男信孝を追い詰めて切腹せしめた秀吉の主筋に対する仕打ちを思い出して、「何と天道応報の理、恐ろしきものにはなきか」(『駿河土産』)と言って、天下の政道に天道応報の理をつくづくと感じ取っていた。
 彼の天道が神儒仏のいずれに重点が置かれていたのか不明だが、いずれかを全否定するようなことはなかったように思われる。つまり神儒仏の習合した世界観を持っていたということだ。個人的には浄土宗を信仰していたが、しかし、天下人として、プラグマティックでなければならない天下の政道ということに関しては、特に政治哲学でもある朱子学が天道の理ということで応用されていたように思われる。そして、そこから各党派に内在する〔理〕を抽出して〔中〕なる統治を行った。
 
 家康、あるいはその子孫として統治に臨んだ歴代将軍の立場に立てば、天下人として、そのような「中庸」を得た対処を行ったからこそ、秩序は安定に向かい、日本社会は長期の平和を享受した、ということになろう。そのレールを敷いた家康はまさにそれが天命でもあったかのように、これらの施策を行った後この世を去った。そして、自ら遺言して、智仁勇を兼ね備えた神、東照大権現として日光に祀られたのである。

 もちろん家康は書物を残したわけではないから、歴代将軍やこれを補佐することになる幕閣がこの神祖の天下草創の理念を正確に理解していたというわけではないだろう。
 しかし、家康の遺法は何事も祖法のままに、ということで存続しえたし、朱子学を官学として採用することである程度継承されたといってよい。
 家康の死後も幕府は林羅山を重用し、三代将軍家光の時、上野忍岡に土地を与え、ここに羅山は学問所を開き、孔子廟を造り、これを「先聖殿」と称した。これが五代将軍綱吉の命により幕府直轄の学問所「昌平坂学問所」、そして「湯島聖堂」へと発展していくことになる。
 羅山は朱子学者であったが、それにとどまらず、朱子学と神道を根本では同じだとする理当心地神道を唱え、その後の儒者による神儒習合のさきがけ的存在となったのである。

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