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対華二十一ヶ条要求問題に象徴される日清、次いで日中関係の軋轢の原形は、明治草創期の対清外交にすでに胚胎しています。 日本とシナの関係がここまでこじれたについては、常識的に考えて双方に原因があったはずですが、日本の立場について、日本人は小声で囁くだけで、あることないこと、日本の非をあげつらう中国人のわめき声にかき消されてしまい、当の日本人自身が彼らの言い分が正当であったかのような錯覚に陥っています。国際社会、とりわけ西洋社会は、自分の利益を稼ぐことに夢中で、相変わらず、まるで、数年前話題になった騒音おばさんのような、日本の隣人たちが大声でわめき散らす声しか耳に入ってこないようです。 しかも戦前の日本を悪者に仕立て上げることは、彼らの非を覆い隠す上でも大変都合いいようで、自分らの非(それもかなりひどい)は棚に挙げて、戦前の日本を非難することが多々あります。 ところで、シナと日本の関係が最初からこじれていたのかというと必ずしもそうではありません。明治草創期には両国にとって大変希望に満ちた時代が存在したのです。 その時代の日本の外交を担ったのが、副島種臣でした。 明治三年八月に、明治政府は清朝に対し修好の提議を行いましたが、一度 は断られました。しかし当時の清朝実力者の曽国藩(そうこくはん)や李鴻章が、近代国家としての発展を目指す日本と通商を開くことの道理を説いて、修好条規は結ばれることになりました。 明治四年八月には、日清修好条規が調印されています。 この条規の第一条には「こののち両国はいよいよ和誼を厚くし、天地と共に窮まりなかるべし。両国の領土は互いに礼を以て扱い、いささかも侵越することなく、永久安全を得せしむべし」という理想が謳われています。 平等条約で、相互に治外法権と領事裁判権を承認しあうという、当時としては画期的なものでした。尊大な中華思想にとらわれ、日本を差別的に見下していた清朝が対等条約を結んだという事実を見れば、この対等条約にかけた両国指導者の思いは本物だったでしょう。当時は両国とも西洋と結ばされた不平等条約に切実に苦しめられていたのです。 この後の外交を担当したのが、明治四年七月の廃藩置県後、外務卿に就任した副島種臣でした。副島は肥前佐賀藩出身で、和漢洋の学問に通じた当時第一級の人材でした。 着任後副島は積極的な東アジア外交を実践します。 対清外交の端緒としてマリア・ルース号事件というのがあります。 当時奴隷貿易の拠点であったマカオから清国人奴隷を積み込んだペルーの風帆船マリア・ルース号が横浜に寄港。その停泊中に、清国人奴隷の一人が脱走し、英国代理公使ワトソンに保護されますが、これによって、この船が奴隷の運搬船であることが判明したのです。 副島は、列強各国公使の批判にもかかわらず、天下公道上の見地から、船長を裁判にかけ、先の条規に則って、一般のシナ居留民と同じ自由と権利を有するものとして、231名の清国人奴隷たちを解放し、押しなべて各国公使の尊大な態度を改めさせました。アメリカ公使デロングなどは副島に心服し、小笠原諸島を日本領と認め、さらにはハワイの日本合併に協力するとまで言ったといいます。 この事件により、日本は領事裁判権の一部を回復したほか、自らも娼婦や年季奉公人などの人身売買の弊風を改めるなど、副産物も大きく、ポルトガル領マカオでは人身売買が禁止され、イギリス政府も外国船の人身売買に関して日本の処分に倣うよう、東洋駐在の公使に訓令を発しました。 もちろん清朝からは感謝されました。 この事件の発生が明治五年六月で、判決が出たのが同年八月です。 この時期というのは大変重要な時期で、明治政府が東アジアの問題に本腰を入れて取り組み始めた時期でした。 まず『自由党史』によれば、七月頃、南洲翁と板垣退助が、政府の腐敗の矯正を誓い、征韓の議を立てることにしたといいます。そして二人は参議でしたから閣議にかけ、外務省から満州・朝鮮方面への調査員派遣を命じました。 これが八月のことです。 この時期から副島と南洲翁・板垣はともに意見を交換して事を進めて行ったようです。 さて機運というものはあるもので、同時期に台湾における琉球漂着民殺害事件が起こります。 清朝への朝貢のために福建省を目指した琉球人数十名が漂流し、流れ着いた台湾で、生蕃と呼ばれる台湾人に、そのほとんどが虐殺されるという事件が起きたのです。 この情報を東京の政府に伝えたのは、薩摩藩出身の伊地知貞馨でした。 この明治五年の一月、鹿児島県参事の大山綱良はこの伊地知と奈良原繁を那覇に派遣して、維新の趣旨を伝え、日本への帰属を促しめ、同時に改革を行わせようとしたのです。その滞在中に台湾で事件が起こり、伊地知は急いで上京してきたのでした。彼が副島に面会して事情を伝えたのが八月十四日のことで、琉球王の使者が上京して、琉球の日本への帰属が確かめられたのが九月十四日のことでした。 副島が米国公使デロングの斡旋で、アモイ領事館を務めた経験があり、台湾問題に詳しいリゼンドルに相談したのは九月二十三日のことでした。 副島はリゼンドルに、台湾問題における自己の見込みを次のように伝えています。 「我見込み三等これ有り候。第一、支那政府にて琉球人を殺害し候土人を罰し候か。第二、支那と日本戮力(協力)して土人を罰し候つもり。右もならざれば第三の如し。第三、支那の手を経ず、直にホルマサ島(台湾)へ問罪の官員を派出の目的。」 つまり第一等の処置としては支那政府自らが殺人者を罰する、第二等の処置は、両政府協力して犯罪者を罰する、第三等の処置は日本政府自らが犯罪者の罪を問う。副島が支那政府自らが犯罪者を罰することを望んでいたことは明らかです。大変筋の通った見解というべきでしょう。 副島自身は政治家・外交官として、漢籍、特に孔子の教えを実践していました。後に副島と意気投合した李鴻章は、「閣下漢籍を読む、何ぞ淵博なるかくの如し」と感嘆しています。つまりこの王道精神を基に万国公法の通義正理に則って事を処断しようとしたのが、副島外交だったのです。 先の三等の見込みはここから導かれたものでした。 しかし台湾における清朝の統治の実態をある程度つかんでいた副島は、第三等の処置を見込んでいました。それはなぜかというと、清朝が生蕃の居住区を統治できていないだけでなく、その気さえもないことが明らかだったからです。統治できていないだけなら第二等、すなわち日本政府が協力して犯人の処罰に当たればいいのですが、清朝は化外の地(化は教化の化、つまり清朝の教化の及ばぬ野蛮の地の見られていた)として、この地方を統治する気がありませんでしたから、もはや日本国民となった琉球国民を殺害した生蕃を罰するには、第三等の処置しかないということです。領土問題に関しては、彼の基準から言えば、清朝は第三等の処置しか出来ない政府だったということになります。 琉球民を日本人としたことがあざといと思われるかもしれませんが、琉球を実効支配していたのが薩摩藩であったということと、清朝の朝貢国であったことが西洋基準における領地であったとは言えず、清朝がそれを改める気がない以上、それを口実に西洋列強にここを占領されることは、日本にとって致命的なことであり、また言語・文化的に見ても琉球文化が日本文化と親戚関係にあることは明らかで、琉球を日本領土としたことは正当なものであったことは明らかです。 しかも台湾生蕃の地で、今回と同様の事件がおきて、西洋列強の国民が殺され、これを口実に占拠されることにでもなったら、日本としては大変なことになります。現にこの数年前アメリカ漂流民が生蕃に殺され、彼らと交渉し、清朝政府とこの地への大砲設置について掛け合ったのが、副島が相談したリゼンドルでした。彼の助言で副島はさらに腹を固めました。 すでに、先に出たマカオは、戦火を交えることなくポルトガルに武装占拠され、奴隷貿易の拠点とされましたが、清朝政府は苦情を申し立てることも出来ないでいるのです。気概に富む明治草創期の指導者がこれを傍観できなかったのは当然です。そもそも明治維新そのものが、こういった事態を防ぐために必要だったのですから。 このときから、日本政府が紆余曲折を経つつも、大東亜戦争に至るまで、一時的に友好的になることはあっても、節目節目で第三等の処置に出ざるをえなかったのも、日本政府の要人が副島同様の思考経路を踏まざるを得なかったからです。その点明治政府は、戦略的な誤りを多く犯したかもしれませんが、副島の規範から大きく外れることはなかったのです。 日本が、日清戦争において朝鮮への清朝のくびきを断ち、満州にまで出かけて行ってロシアを駆逐せざるを得なかったのも、根本要因はここにあります。 清朝は自らの祖地であるにもかかわらず、満州をロシアから守るに無策でした。満州北部への植民を奨励したのが、日清戦争敗北後で、余りにも遅すぎます。 そしてマカオ同様、何の戦いもなく、満州はロシアに居座られてしまいます。さらに彼らは抗議するどころか、これを与えて、ロシアの力によって日本を倒そうとさえするのです。露清密約がそれです。 これを知らなかった日本は、ロシアを満州から追っ払って、清朝に返してあげました。全くのお人よしです。 清朝にせよ、その後の国民党政府にせよ、それほど彼らの統治意識は、西洋の論理に対抗できないものであり、その処置振りは不甲斐ないものでした。 ですから日本は副島の言葉で言えば第三等の対応をせざるをえなかったのです。 そして、そういった事情を利用したのが、中国共産党の工作員たちだったのですね。日本はまんまとはめられたのです。 そういった関係の一幕として、あの「二十一ヶ条要求」問題を見る必要があるのです。かろうじて満州の領有を主張する資格のある清朝は倒れましたから、満州は、日本の立場としては、漢民族である中華民国政府のものではない。 満州は漢民族のものであるというのは、今も変わらぬ彼らの強欲の賜物であることを忘れてはなりません。そのおかげで多くの民族が抹殺あるいは抑圧され、涙を流し続けているのです。それもいまだに。 三宅久之翁がいわゆる「二十一ヶ条要求」事項を批判的に述べたことは前に触れましたが、中華民族が相も変らぬ強欲さであるとすれば、日本の方も相も変らぬお人好しであると言えるのではないでしょうか。政治評論家でさえそうなのですね、日本では。 左翼の方が言うように、相手の立場を理解することは大事なことですが、それは正確な知識・判断に基づくものでなければなりませんし、しかもそれだけでは半分の理解に達したに過ぎず、自己の立場を理解して初めて利害の対立者としての相手の立場も十分理解できるのです。 また相手を理解することと、相手の立場に立つことは別です。 吉田松陰は、松下村塾の生徒に関ヶ原の歴史を講義する際、さて君ならどうすると言ったといいます。長州は関ヶ原の敗戦国でした。 歴史の情実を理解するには当事者意識を持つことが不可欠なのですね。 特に敗戦国の場合、その情実・立場は勝者によってかき消されてしまいますから、当事者意識を持つことはとても大事なのです。 副島種臣の立場にあなたが立たされたらどうしますか。 「二十一ヶ条要求」問題時代の政府当局者の立場にあなたが立たされたらどうしますか。 想像力を働かせてみてください。 日中関係において日本は概ね正当な立場を貫いてきました。 それは道義性から見て、最善とはいえなくとも、次善くらいの対応ではなかったでしょうか。この日本を侵略国家と呼ぶのは無知であり、漢民族の人命や尊厳を屁とも思わぬ暴慢なふるまいを思い浮かべたとき、却って没義道的であるとさえ言えるのではないでしょうか。 |
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